キリスト教の信仰の成否は、キリストのことばにかかっているのです。聖書を懐疑的に見る人たちは、キリストを見ていません。この記事では、キリスト教の信仰の是非を問いかけます。素直にキリストに耳を傾ければ、霊的DNAが呼び起こされ、キリストをハッキリと知ることができます。
神の存在
科学的に神の存在は証明できるのでしょうか。それは不可能です。それであれば、なぜ人は神を信じるのでしょうか。これはすべての宗教に当てはまる質問です。
ほとんどの宗教、特に日本の宗教においては、この疑問に対して、ハッキリとした答えもなく、その宗教の伝統に基づいて宗教が行われています。日本において、宗教は万が一の保険のようなものです。万が一ののために、生命保険、火災保険、地震保険、健康保険、自動車の保険に、私たちは入ります。それと同じ感覚で、日本人は、神仏と言われるものを見れば、念のために一応、祈っておくのです。それが日本人の宗教観です。
神様の存在について、もう少し考えてみましょう。自然にはデザインがあります。自然が調和して、完璧なリサイクルシステムを作っています。デザインがあるからには、その自然を創ったデザイナーがいてもおかしくはないです。この自然が、神の知恵と支配を示しているとローマ1章では書かれています。ですから、すべての人間は、創造主なる神を信じて当然であり、神を信じないという言い訳など、本来ならばないのです。すべての人間は、天の神様を信じるべきなのです。
キリスト教の成否
さらにもっと深く突っ込んで考えますと、キリスト教の信仰にはまったく違った側面があります。キリスト教の信仰の正否は、イエス・キリストのことばにかかっているのです。
キリストは、ご自分が天の父なる神様によって遣わされたと言いました。これだけであれば、旧約聖書の預言者たちも、同じことを言っていましたから驚くにはあたりません。歴史上に現れた偽預言者も、同じようなことを言いましたから、ビックリすることではありません。
しかし、イエス・キリストのことばは、人間のすべての価値観をひっくり返すような衝撃的なことばです。天の神様をご自分の父と呼びました。父なる神様との関係は、ご自分だけがもっている特別なものであると、強調したのです。さらに、父なる神とご自分は一つであるとも宣言しました。天の父なる神様との関係は、主イエス様を通してでしか、人間はもつことは出来ないのです。主イエス様のことばは、父なる神様のことばです。主イエス様に出会う人は、神様と直接出会うのです。また父なる神を信じれば、当然、自分をも信じるだろうと宣言したのです。
大工の息子に過ぎない人が、いきなりこんなことを言い出したのですから、周りの人々は驚きました。特にユダヤ教律法学者たちは、自分たちのプライドが傷つけられたのです。ですから、彼らはキリストに挑戦的な質問を投げかけ、また挑発しようとしたのです。彼らの共通の疑問は、イエス・キリストという人は、いったい何者なんだ?という疑問でした。
「あなたは自分が何者だと思っているのか」
ヨハネ8章25-26節、53節を読んでみましょう。これらの質問は、ユダヤ人たちだけのものではなく、すべての人間がすべき質問です。一体、イエス・キリストはどういうお方であるかという質問です。
実際、イエス様の教えを直接聞いた12人の使徒たちも、同じ疑問を持っていたのです。マルコ4章35-41節を開けてください。弟子たちが嵐の荒波の中で溺れてしまうという時、主イエス様が嵐を沈めました。その時、弟子たちは、「この方は一体、何者なんだと」と驚きの声をあげました。
人々の病をいやした時も、同じ疑問を持ち、心の中で叫んでいたのです。さらに、その教えが、ユダヤ教律法学者のような、うわべだけの教えではない、人の心に語りかける権威ある戒めを聞いて、神の知恵と力と愛と正義に感嘆していました。
しかし、彼らの信仰の根っこは浅いものでした。彼らは、弟子として主イエス様について行っていましたが、主イエス様が誰なのか、どこから来たのか、何のために来たのか、十字架の死を見た時でさえ、まだ理解していなかったのです。彼らの信仰はからし種のように、小さかったのです。多分、私たちの信仰も、そのようにからし種のように、まだ小さいかもしれませんが、主イエス様に目を向ければ、伸びしろは無限大にあるのではないでしょうか。
このように、クリスチャンの目は、常に主イエス・キリストに向けられるべきなのですが、そうならないのが、人間の性とも言えます。
あるクリスチャンの悩み
神に喜ばれるクリスチャンになるために
あるクリスチャンが、神様の愛にふさわしい人間になるためには、何をしなければならないか、真剣に思い悩んでいたのです。彼女の心はどこに向いていたのでしょうか。常に内側に向いていました。自分の内面を見て自分の至らなさを嘆いていました。彼女の目は、いつも自分自身を見ていたのです。下を向いて歩いて悩み、どのように神様に喜ばれるクリスチャンになれるのか、自分の足りなさを知り、思い悩み苦しんでいました。
このようなクリスチャンの悩みは、例外的ではありません。実際、私はこのような悩みを抱えている、多くの真面目なクリスチャンを知っています。
共通する間違った方向
このような悩みを持つ人たちには、共通点があります。肝心要なことを忘れています。まず下を向いていては、歩けません。次に自分の内面ばかり見て、自己吟味だけしていては自分のふがいなさに嘆くだけです。さらに、このような悩みを持つ人は、自分自身と他のクリスチャンとを比べてしまうのです。他のクリスチャンが、どれほど、素晴らしいかを、うらやましく感じていたのです。人と比較して自己評価すること程、不健康なことはありません。人より劣っていれば劣等感、人よりまさっていれば優越感を持ちます。
この人の目は間違った方向に向いていました。実際、多くの人たちがやってしまう過ちです。私たちが、比較するのは他のクリスチャンであってはなりません。どんなに素晴らしいクリスチャンであっても、その人は決して、私たちの霊的成長の尺度には成り得ません。目標にも成れません。
常に、主イエス様に目を向けるべきなのです。比較する対象は、神様ご自身なのです。だから、主イエス様はいうのです。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」また、次のようにも言われます。「あなたがは聖なる者となれ。わたしは聖なる者であるからである」と。この目標が明確になると、信仰の健全なサイクルが生まれます。
健全な信仰のサイクル
人間は、自分が必要なものは何かを知っていると思って生きています。しかし、キリストは人間が必要はものは何かを、私たちにわかりやすく、優しい言葉で語ってくださいました。そして、「わたしを信じなさい。わたしに学びなさい」と今でも私たちを招いています。これが信仰の健全なサイクルです。
信仰の健全なサイクルとは何でしょうか。まずキリストを知ることから始まります。逆にいえば、キリストを知ることがなければ、キリストを信じることもできません。
キリストがへりくだった方であり、人間が正しく生きるための処方箋を、私たち人間に与えています。この教えは、人間を罪の呪縛から解放できる、神の業であると理解できるようになります。これは、頭での理論的な理解です。
この時点で、イエス・キリストを心から信じることができる信仰が生まれるのです。理知的な信仰から、心に宿る信仰、つまり、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、信じる信仰へと変えられていくのです。
さらに、この信仰ゆえに、主イエス様の教えを実践します。従います。この従順が、主イエス様を知る知識をさらに高めていきます。
この信仰のサイクルは、健全なクリスチャンは一生続けていくのです。主イエス様を知ることが、どこかで止まったら、そこで弟子としての生きていくことを止めることになります。
人間であるキリスト、神であるキリストを知る
ヨハネの福音書の学びを通して、私たちは、人間であるキリストを知り、また神であるキリストを知ることになります。この福音書のテーマは、キリストを信じる信仰です。ヨハネの福音書には、全部で21章ありますが、その中で信仰、信じるということばは、すべて数えたわけではありませんが、少なくとも150以上使われています。つまり、1章の中で7回以上は使われているのです。主イエス様は、繰り返し繰り返し、「わたしを信頼しなさい、信じなさい」と言います。
私たちが主イエス様が100%人間であり、100%神様であると知る時、信仰は本当に花開きます。聖霊なる神様が働いてくださり、私たちの人生の道もひらかれるのです。
キリストと歩む人生の旅路 信仰の道
主イエス・キリストと共に歩む道は、信仰の道であり、長い人生の旅路です。おしゃべりの九官鳥を家で飼っていると想像してみてください。あなたの言うこと、やることを観察して、あなたの真似をよくするのです。家族の間で言い争いになっていることも、その通りに話すことができます。朝から夜まで、あなたがやることをすべて観察しているのです。こんなペットいたら、恐ろしいです。
あなた自身が病気になり入院して、この九官鳥を他の人にあずかってもらうことにしました。でもこれって、もし内でも外でも、信仰によって生きていないなら、危険なことです。自分の家での会話が、公にされてしまうからです。
そんなことにならないように、普段から、いつも、内でも外でも、信仰によって生きていましょう。僕は九官鳥は飼っていないから、大丈夫だと思いますなんて思ってはいません。
なぜなら、主イエス様は、どこにいても、何をしていても、いつも私たちと共にいるし、私たちを見ているからです。私たちは舞台に立ち、役割を演じているような者です。主イエス様は、舞台の袖で、今も私たちを見守っているのです。
