フォーラムへの返信
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- Masa Nonogakiキーマスター
カトリックの方々は、ロザリオを使って、主の祈りを繰り返します。それの祈りの一つのやり方だとは思います。管理人は、主の祈りを基にその日の課題のために祈ります。主の祈りは、祈りるべき内容の基本項目を網羅していると思うんです。読者の方々は、どのように思われますか。
Masa Nonogakiキーマスター聖書を読み理解することも大切ですが、おそらく同じくらい、またそれ以上に、御心にそって祈ることは大切だと思います。この祈りの仕方がわからないと、成長が難しいのではないでしょうか。
Masa Nonogakiキーマスターこの地は罪で満たされています。人間が罪を犯し続けるからです。人間の罪は、ありとあらゆる場所、場面で、個人的にも国家的にも犯されています。人間の体のガンが体中に広がるように、世界中に広がり致命的な病気状態です。我々、罪深い人間の思いではなく、神のみこころが行われるように祈ることだと思います。なぜなら、我々人間の思いは自己中心的であり、肉の思いであることが多いからです。主イエス様も十字架にかけられる前に祈りました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
また主イエス様は、私たちを次のように戒めています。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
Masa Nonogakiキーマスター「正しいことを聞いても人は動かない」という人間関係の奇妙な点を発見しました。人は感動して動くという事です。なるほどと納得しました。だから人の話をよく聴くことにしました。
Masa Nonogakiキーマスター本当にこの辺は微妙ですよね。私の場合は、相手が興味があれば、差し上げるようにしています。とにかく信頼関係が基礎なので、原点がそこにあると思っています。
キリストの愛を、何とか身に着けようと精進しています。他の人が、私たちの生き方を見て、ちょっと不思議と思ってくれれば良いと。
Masa Nonogakiキーマスター「無料で出来る信用残高を増やす方法。なるほどですね。」そうなんです。
自分が20代の頃、レストランに勤めていたころの話です。仕事の環境があまりに辛かったので、私はお世話になったチーフや仲間たちを裏切って、逃げてしまいました。人間関係がプッツンと自分で切ってしまったのです。それ以来、どんな人に対しても、人間関係を自分から切ってしまう行為は、本当に愚かだなと思うようになりました。約束を守るもその一部だと思って、肝に銘じています。
Masa Nonogakiキーマスター20代の若い時は、人を説得するために議論は必要だと思っていました。でも今では、それは間違いであると気づきました。議論するよりも、傾聴する方がよほど効果的だと今では考えています。人間関係での傾聴の効果は、私が以前考えていたのとは、180度違いました。
Masa Nonogakiキーマスター「一般的に グリーフケア(悲哀をケアする)勉強会が持たれていますが カリキュラムは 上智大学のデーゲン先生(神父)によるものですが、福音のエッセンスがかなりマイルドで。あまり効果が出ていないようです。看護・介護の現場では
福音が切実に必要です。」大変なチャレンジだと想像します。私の個人の能力では到底、出来そうもありません。謙虚になります。介護にイエス・キリストの福音をどのように生かしていくのか、それが課題という事でしょうか。Masa Nonogakiキーマスター今の時代、風潮というか、他の人を敬う態度が疎かになっているように思えます。だから余計に、今の社会では多くの人がストレスを抱えているようにも思えてしまうのです。
自己主張できる人がカッコイイのような考え方があるような、、、、。間違いでしょうか。皆さんの意見を聞かせてください。
Masa Nonogakiキーマスター返信ありがとうございます🙇。人を正すという善意の名のもとに、実は人をどれ程裁いてきたことか。と考えさせられます。悔い改めです。
Masa Nonogakiキーマスター主イエス様は、人の自由を尊重しました。罪深いことを行っていても、その人の行動を無理やり止めることはしません。その人が気づくまで待ちます。人を敬う心は、私にとって結構、チャレンジなことです。いつも心に刻み、自戒していないと、無意識に人を裁いてしまうこともしばしばです。
意見の違いや本当に些細なことが原因で、人を敬う心を失ってしまうと、その人に対して自ら壁を作ってしまいます。主イエス様はそんなことをしませんでした。どんな人でも受け入れる度量と態度を持っていました。クリスチャンは、特にこの世の中の悪に対して怒りや憤りを感じる時、憐みや悲しみよりも、それを行っている人間に怒りと憤りを覚えてしまいます。特に私はその傾向があるように思えます。しかし、人には悔い改めのチャンスが残されています。祈りつつ、憐れみをもち、人を裁かないように生きていければ願っています。
Masa Nonogakiキーマスターおっしゃる通りだと思います。まったく同感です。「世の人は発言にそこまで責任を持たない傾向があるように思います。」これはもったいないです。良い人間関係を作るために、基本の基本なのに。
私が中学の時、約束を破る癖というか、そんな事があって、愚かなことをやって苦労した覚えがあります。約束を守るのは、何の労力もいらないし、お金もかからない。無料でできる信用残高を増やしていく方法なのに、私はそれを知らなかったのです。人に好かれる第一歩だと思います。それを70歳になって、心底知るようになって良かった!本当に恵みだと思います。
約束をしておいて自分の都合で、時間変更をしてもらったことは、誰でも一度や二度はあるかもしれません。しかし、それが続くと信用残高がゼロになります。
信用残高がいっぱいになると、自然と頼りになる人間にも成れます。約束を守るは、基本中の基本なので、改めて疎かにしてはいけないと自戒しております。;
Masa Nonogakiキーマスター究極的には、約束を守るとは神様の特性とも言えますね。必ず、約束を守りますから。しかし、私たちにも約束を守る責任があります。約束を守ることと隣人愛の実践は、どのようにつながっていると思いますか。
Masa Nonogakiキーマスターどんな仕事であれ、(道徳的に反する仕事は別ですが)主イエス様の名によって行えば社会の中でキリスト者として働けるのではないかと、僕は考えていますが、ちょっと広すぎますかね?
Masa Nonogakiキーマスターどんな仕事であれ、(道徳的に反する仕事は別ですが)主イエス様の名によって行えば社会の中でキリスト者として働けるのではないかと、僕は考えていますが、ちょっと広すぎますかね?
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