フォーラムへの返信
- 投稿者投稿
- 野々垣 正信キーマスター
20代の若い時は、人を説得するために議論は必要だと思っていました。でも今では、それは間違いであると気づきました。議論するよりも、傾聴する方がよほど効果的だと今では考えています。人間関係での傾聴の効果は、私が以前考えていたのとは、180度違いました。
野々垣 正信キーマスター「一般的に グリーフケア(悲哀をケアする)勉強会が持たれていますが カリキュラムは 上智大学のデーゲン先生(神父)によるものですが、福音のエッセンスがかなりマイルドで。あまり効果が出ていないようです。看護・介護の現場では
福音が切実に必要です。」大変なチャレンジだと想像します。私の個人の能力では到底、出来そうもありません。謙虚になります。介護にイエス・キリストの福音をどのように生かしていくのか、それが課題という事でしょうか。野々垣 正信キーマスター今の時代、風潮というか、他の人を敬う態度が疎かになっているように思えます。だから余計に、今の社会では多くの人がストレスを抱えているようにも思えてしまうのです。
自己主張できる人がカッコイイのような考え方があるような、、、、。間違いでしょうか。皆さんの意見を聞かせてください。
野々垣 正信キーマスター返信ありがとうございます🙇。人を正すという善意の名のもとに、実は人をどれ程裁いてきたことか。と考えさせられます。悔い改めです。
野々垣 正信キーマスター主イエス様は、人の自由を尊重しました。罪深いことを行っていても、その人の行動を無理やり止めることはしません。その人が気づくまで待ちます。人を敬う心は、私にとって結構、チャレンジなことです。いつも心に刻み、自戒していないと、無意識に人を裁いてしまうこともしばしばです。
意見の違いや本当に些細なことが原因で、人を敬う心を失ってしまうと、その人に対して自ら壁を作ってしまいます。主イエス様はそんなことをしませんでした。どんな人でも受け入れる度量と態度を持っていました。クリスチャンは、特にこの世の中の悪に対して怒りや憤りを感じる時、憐みや悲しみよりも、それを行っている人間に怒りと憤りを覚えてしまいます。特に私はその傾向があるように思えます。しかし、人には悔い改めのチャンスが残されています。祈りつつ、憐れみをもち、人を裁かないように生きていければ願っています。
野々垣 正信キーマスターおっしゃる通りだと思います。まったく同感です。「世の人は発言にそこまで責任を持たない傾向があるように思います。」これはもったいないです。良い人間関係を作るために、基本の基本なのに。
私が中学の時、約束を破る癖というか、そんな事があって、愚かなことをやって苦労した覚えがあります。約束を守るのは、何の労力もいらないし、お金もかからない。無料でできる信用残高を増やしていく方法なのに、私はそれを知らなかったのです。人に好かれる第一歩だと思います。それを70歳になって、心底知るようになって良かった!本当に恵みだと思います。
約束をしておいて自分の都合で、時間変更をしてもらったことは、誰でも一度や二度はあるかもしれません。しかし、それが続くと信用残高がゼロになります。
信用残高がいっぱいになると、自然と頼りになる人間にも成れます。約束を守るは、基本中の基本なので、改めて疎かにしてはいけないと自戒しております。;
野々垣 正信キーマスター究極的には、約束を守るとは神様の特性とも言えますね。必ず、約束を守りますから。しかし、私たちにも約束を守る責任があります。約束を守ることと隣人愛の実践は、どのようにつながっていると思いますか。
野々垣 正信キーマスターどんな仕事であれ、(道徳的に反する仕事は別ですが)主イエス様の名によって行えば社会の中でキリスト者として働けるのではないかと、僕は考えていますが、ちょっと広すぎますかね?
野々垣 正信キーマスターどんな仕事であれ、(道徳的に反する仕事は別ですが)主イエス様の名によって行えば社会の中でキリスト者として働けるのではないかと、僕は考えていますが、ちょっと広すぎますかね?
野々垣 正信キーマスターどんな仕事であれ、(道徳的に反する仕事は別ですが)主イエス様の名によって行えば社会の中でキリスト者として働けるのではないかと、僕は考えていますが、ちょっと広すぎますかね?
野々垣 正信キーマスター介護の仕事は、何事も受け流す寛容さが必要なのかなと感じます。病気がよくなって欲しいとか、体調が改善してほしいとか、私は思ってしまいますが、、、、それは若い時のように回復するわけではないので、その辺を受け流す心の余裕というか、その寛容さんが必要だと思っています。
ただ個人的には複雑な思いがあります。ある日、大きな病院で、寝たきりで何もできないお年寄りを見ました。家族がそこで座っているのですが、何も出来ずいます。ちょっと、悲しくなりました。
野々垣 正信キーマスターアドバイスのつもりではないですが、、、、、。すみません。「なぜ信じているのか」と言う質問は、大浦さんにも返ってきますから。そうなると、議論になり論争になります。なぜという質問は、自分に焦点が当たります。「何を信じているか」はイエス・キリストに焦点が当たります。
野々垣 正信キーマスター大切に思っていることが伝えられるだけでも、十分だと思います。お父様、お母様が何を信じようが、ご自分の良心であることには変わりはないので。なぜ信じているのか、「なぜ」という質問はあまりよくないと思います。何を信じているのかは、良いですが、「なぜ信じているのか」の質問は、100%うまくいかないと思います。
野々垣 正信キーマスター主の再臨を考える時、私はいつも次の聖句を思い起こします。
3:3 まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、
3:4 こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」
3:5 彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、
3:6 当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。
3:7 しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。
3:8 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
3:10 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。
3:11 このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。
3:12 神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。
3:13 しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。2ペテロ3章3-13節主は必ず来ます。それはいつかわかりません。その日、その時は主イエス様でさえ知らないと言っているのですから。私たちは信仰深く主を待ち望みます。
野々垣 正信キーマスター介護施設において、お年寄りや体に不自由がある方たちが虐待を受けたのようなニュースを聞くと、それもストレスからくるものなのかと私は思ってしまいます。ストレスが溜まって、介護する人が弱者にあたってしまうようなことでしょうか。何の仕事でもそうかもしれませんが、介護の仕事も向き不向きがあるのかもしれません。私の友人で、やはり介護の仕事をしている人がいますが、その人は何事もクールというか感情移入しないようにしてるそうです。難しい仕事だとは思います。
- 投稿者投稿