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神の聖霊によって新しく生まれる

キリストがニコデモに話している

命には肉体の命と霊的な命があります。主キリストは、「神の聖霊によって新しく生まれる」必要性を説いています。新しく生まれる意味について考えてみましょう。ヨハネの福音書3章1-8節を読んでみましょう。

人生に模試はない

中学生、高校生は、進学するために模試を受けることがあります。本番の受験に備えて、同じような試験を受けるのが模試です。しかし人生には模試はありません。結婚に模試はありません。子育てに模試はありません。私たちの人生の一歩一歩が、新しい試みなのです。本番です。日々、新しい発見の連続です。今日という日は、2度とない日です。だから日々、新しい発見があります。

しかし、人生は失敗の連続でもあります。そこで、人は誰でも、人生をやり直すことを一度は考えるかもしれません。しかしどんな方法で人生をやり直せるのでしょうか。

人は誰でも新たに生まれる必要がある

主キリストは、「人は誰でも新たに生まれなけれる必要がある」と教えています。さらに水と霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることはできない」とハッキリと言っています。

新たに生まれるとは、どんな意味でしょうか。私たち人間は、新たに生まれようと考える時に、見た目を変えたりします。肉体改造をしたり、人にはよって顔・形を変えて整形手術を受けたりします。しかし、キリストが教える、新たに生まれるとは、見た目ではなく、霊的な心が生まれ変わる、内面が変わるという意味です。

罪の呪縛、罪の奴隷状態 

そもそも、なぜ人は、新たに生まれる必要があるのでしょうか。主キリストは、罪を犯す者は罪の奴隷だと明言しています。罪の呪縛は、私たち人間を縛り付けています。ここでちょっと極端な例を話してみましょう。

アメリカ、カリフォルニアで、メタとグーグルに対して、ある女性が起こしていた裁判に、最近(2026年3月26日)判決が下りました。この女性は、子どもの頃にソーシャルメディアに依存するようになったとして、MetaとGoogleを相手に損害賠償を求める裁判を起こしていました。

私はこの判決の記事を2‐3度と読み返しました。それだけ衝撃的だったのです。つまり、この女性が依存症になった原因をつくったのは、運営会社であるMetaとGoogleにあると認めたのです。この女性の訴えそのものが、他責思考の現れです。また公に、裁判所が、他責思考は合法的である、世の中の基準であると認めたのです。これこそ、他責思考が社会全体に蔓延している証拠でもあります。

誰にでもある他責思考

実際、他責思考は誰にもある思考回路です。自分の言動を正当化しようとする、この考え方は、アダムとエバに始まり、私たちもずっと引きずっているのです。40年間のクリスチャン生活で自分自身も、この悪魔の罠にはまってしまったことがあります。そして、教会内で何か問題がある時に、必ずこの罪深い態度が、誰からともなく出てくるのです。これこそが罪の呪縛の奴隷状態なのです。

罪は、国の法律に違反する犯罪ではありません。罪とは、心に宿る私たちの自分勝手な思いです。他人を見下げる心、自分が同じような間違いを犯していても、他人の間違いが大きく見えてしまう心、これらはすべて罪深い思いです。自分が間違いを犯した時に、笑ってゴマ化そうとするクリスチャンを、私は何度も見てきました。私自身もそのような態度をとったことがあります。人間の罪深い、偽善的な態度について、私がわざわざ、例をあげて説明する必要もないでしょう。だから、人は誰でも新たに生まれる必要があります。

水と霊によって、新たに生まれる

水は、洗礼つまりバプテスマを象徴しています。バプテスマは、新たに生まれるために、絶対必須条件です。水の中に身体全身が浸かって、霊的に死にます。そして水から上がって来て、新しい命が与えられるのです。神の聖霊が与えられる時です。私もこの瞬間を覚えています。1986年5月25日の夕拝の時、8時ごろバプテスマを受けました。

ここで問題が起きます。多くの人たちは、バプテスマを受ければ、何かが変わるのではないか、奇跡的なことが起きるのではないか、または心が常にアップしているのではないか、仕事も順調に行くのではないか、欲しいものが手に入るのではないか、と期待します。

ところが1週間経っても1カ月経っても、表面的には何も変わらないのです。ある人は、「これって、おかしくないか」と思います。「キリスト教に入っても結局、何も得したことなかったんです。期待が裏切られました。それに人間は罪人だなんて、面倒くさいことを言われて、本当に嫌になって辞めました」と正直に告白する人もいるのです。

ある人は、バプテスマの後、信仰によって生きて、成長していきます。一方で、別の人は、まったく成長しないでクリスチャン人生が終わってしまいます。キリストを信じることを止めてしまいます。同じバプテスマを受けて、聖霊を受けているのに、なぜこれ程違いが出るのでしょうか。

バプテスマは、新しい人生のスタートライン

バプテスマという一回の出来事で、人生の再生が完成するかというと、そんなことはありません。新たに生まれるのが、成就したのでしょうか。クリスチャンの人生再生は、日々起きているのです。なぜなら、私たちは、日々、自分を捨て、十字架を負うように命令されているからです。

新しい世界観、人生観は、徐々にクリスチャンの心に芽生えてきます。今まで自分の人生は自分のものだから、自分中心に生きてきた人も、考え方が変わるのです。

2コリント4章16節には、「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます」と書かれています。

さらに2コリント5章15節、17節を読んでみましょう。このような新しい人生観、世界観を、神は私たちに与えてくださいました。これは色あせることはありません。しかし、長くクリスチャンであっても、日々変えられたいと思う悔い改めの心は持つべきでしょう。

ちょっと、極端に聞こえるかもしれませんが、私たちは自分の罪深さを認識しているからこそ、日々、聖霊によって新たにされようと願い、日々悔い改めの心をもって生きているのではないでしょうか。もし悔い改めの心がないのであれば、クリスチャンとして死んでいるのも同然ではないでしょうか。

心を惑わすものがあり過ぎる世の中

バプテスマは、新しい人生のスタートラインについたに過ぎません。実際、キリストを信じる人は、神の聖霊によって継続的に清められています。人はどのように生きるかは、その時間をどのように使うかによって決められるのではないでしょうか。時間をどのように使うか、何をして過ごすのかによって決まってきます。

人生を旅路に例えてみましょう。その旅路の行く先々で、目移りするものが置かれています。現代社会、特に過去30年間、世の中はすごい勢いで変化しました。幼い子供まで含めて、スマホを持つような時代です。スマホのゲームやYouTube、Facebook、メールのやり取りをして、自分の世界に没頭してしまいがちです。イエス・キリストについて行くのは、二の次になってしまいます。キリストの弟子として生きるのが、本当に難しい時代なのです。

ある人は自分の趣味のサッカーや釣りの方が、教会での礼拝よりも大切だと思っています。神の御心をやっていないと、ピンポンと鳴らしてくれるような携帯のappがあったら、どうでしょうか。この人たちはどのように反応するんでしょうか。それでもこの人たちは、教会の礼拝よりも自分が好きなことをやるんではないでしょうか。

意識的にキリストにつながる、祈る、実を結ぶ

主キリストは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と命令しています。私たちは、どのように実践しているでしょうか。罪に満たされたこの世の中は、私たちの霊的な目を曇らせます。

1ペテロ5章8節「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探して回っています。」

たとえ、バプテスマの時に新しい人生観、世界観が与えられても、意識的にキリストにつながり、祈り、実を結んでいなければ、すぐ悪魔が背後から来て襲いかかろうとします。

洗礼を受けた後、「救われた」と安心してしまって霊的な悔い改めを止めてしまう人がいます。これは大きな過ちです。新生は日々、更新され継続されるからです。神の聖霊は、忠実なクリスチャンになった人に、なおいっそう働いてくださり、その人を日々新しくして霊的に成長させてくださいます。

私たちに絡みついてくる罪の縄目から逃れて、主イエス・キリストに目を向けて日々歩んでいくことに、クリスチャンの人生の喜びがあります。霊的な成長があります。

クリスチャンは、罪深い過去の罪から解放されました。後戻りはしません。私たちが迷路で迷っている時、憐れみ深い神様は迷路から引き上げられました。たから、私たちクリスチャンは、命を神様に奉げるのです。自分のためにだけ生きる人生から、主イエスのために生きる人生に変えられていきます。主イエス・キリストを信じている人には、新しく生きるために、神の聖霊が与えられます。聖霊なる神様がその人の人生で働いて下さっています。

聖霊の実

ガラテヤ5章22-23節によれば、聖霊の実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。クリスチャンの徳は、人間の努力で成されるのではありません。聖霊による内なる力と知恵によって、純粋な神の愛が実践され、喜び、平和、寛容、親切、慈愛、誠実が生まれるのです。これが聖霊によって新しく生まれる意味です。

さらに私たちは、聖霊の力と知恵によって、新し創られた者として生きます。これは目に見える力と知恵ではありません。目に見えない力と知恵です。私たちの創造主なる神様を心から愛し、主キリストを信じて、聖霊によって新しく生きる力と知恵をいただきます。

この混迷した世の中に生きていても、自分を愛し、いたわり、他の人々を自分と同じように愛する知恵をいただきます。

しかし、今一度、思いなおしてみましょう。主キリストを信じる新しい人生は、ベストです。健全な生き方です。主キリストが与える神様の聖霊によって、私たちは生きる力と知恵をいただきます。キリストに従うとは、何と素晴らしい生き方でしょうか。 ですから、今週も一週間、主イエス・キリストを見上げて生きていきましょう。

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