コンテンツへスキップ 投稿日:2022年10月7日/更新日:2025年1月16日

マタイ6章19-21節。天に宝を積む

金の延べ棒

主イエス様は、マタイ6章19―21節「天に宝を積みなさい」と戒めている。神と富をどちらを選ぶのか。どちらか一方を選ばなければならない。自分の心が、天に向いているのか、それともこの地上に向いているかによって決まってくる。

人間がこの地上に住むようになって以来、古今東西、すべての文化の人々が、お金で生活を成り立ててきた。例外なく、どの国においても、日々の生活を支えるために、人々はお金を使う。人間にとって、生活を支えるためにお金は一番大切なものかもしれない。

実際、結婚している夫婦の最大のトピックは、お金であると言われている。実際、私たち人間にとって、お金は争いの種でもなり得るし、幸福感をもたらすものにもなり得る。日常の生活をしていくために、生きていくためにお金を必要としている。そんな理由で、私たち人間は、お金を得るために働く。

あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

マタイ6章19―21節 聖書協会

天に宝を積みなさい。地上に宝を積んではならない

しかし、主イエス様は、まったく新しい視点を私たちに教えている。食べるために私たちは人間は働くが、そうではなくて、天に永遠の命に至るために働きなさいと教えられている。マタイ6章19―21節のこの意味は何か? 

天に宝を積みなさい。神と富に仕えることはできない

地上に宝、富を積んではならない具体的な理由は、この世の宝、富には永遠の価値がないからだ。いずれ消えてなくなってしまう。天に積む宝は、永遠の宝だ。私たちが死んだ後も残っている宝だ。この世の宝は、私たちが死んだときに、天においては何の役にもたたない。この世の宝を死後の世界にはもっていけない。

次のたとえ話を読んでみよう。ルカ12章13節-21節をクリック。

このたとえ話が教えているように、この世の宝は、100%天につながっていない。天では何の役にもたたない。このような人には悲しい結末が待っている。このたとえ話の人は、自分の宝を地上に積んで一生、楽をして暮らそうと考えていた。ところが、そのように考えていた日に、この人は死んでしまった。地上で豊かになっても、天にいるおとうさまに対しては豊かにはなれないのだ。しかし、私たちはどうだろうか。このたとえ話の人のように生きていないだろうか。

主イエス様は、この世の富は悪であると言っているのだろうか。お金そのものは悪ではない。お金を愛することが悪の温床であると、1テモテ6章はいっている。

また将来のための備えも何もかも必要ないと言っているのだろうか。家に保険をかけたりしているが、これも悪なのだろうか。これらの質問については、今週の礼拝メッセージ、来週のメッセージで徐々にいっしょに考えていく。

天に宝を積みなさいは、神様の命令だが、人生の原則でもある

天に宝を積みなさいというのは、神様の命令だが、人生の原則を教えている。主イエス様の弟子は、この人生の原則を理解して、実践しなければならない。

私たちがどこに宝を積むかは、私たちの心がどこにあるかによって違ってくる。心が天に向けられていれば、宝を天に積むだろう。しかし、心がこの世のものに向いていれば、この地上に宝を積むだろう。主イエス様は、違った切り口で、この原則を教えている。

体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。(マタイ6章22節-23節)

もちろん、肉体的な体の目について、主イエス様は言っている訳ではない。霊的な目について言っている。自分の宝をどこに積むかは、自分の霊的な目がどこに向いているかによって決まってくる。

自分の人生の道を、トラックを運転している運転手と考えてほしい。安心安全のために、途中でいろいろな物を積んでいくだろう。途中には、山道や険しい道がある。長い旅路を生き抜くためには、飲み水も食べ物も必要だからそのような物を積むだろう。

人生を生きる道で、何を途中で積んでいくのだろうか。それは、私たちの霊的な目が決めるのだ。人生を自分の楽しみのために生きている人は、その楽しみになる物を積んでいく。しかし、人生を神様のために生きていく人は、神様に仕えるために、神様の働きのために役にたつ物を積んでいく。神様の栄光を現すことができる物を積んでいく。

ある人は次のように言うだろう。「自分が稼いだお金を何に使うかは、自分の自由だと思う。その使い方によって、人が裁かれるのはおかしいのではないか。」確かに、自分のお金をどのように使うかは、その人の自由だ。主イエス様は、私たちから自由をとったり束縛したりしない。しかし、そのお金の使い方の原則を主イエス様を教えているのだ。

ここまで天に宝を積むことの意味について考えてきた。自分の宝があるところに、自分の心があること。そして、自分の霊的な目がどこに向いているかによって、自分の宝をどこに積むか決まってくることを説明した。最後に、主イエス様は、もっとも大切な原則を私たちに教えている。

神と富に両方に仕えることはできない

この原則は、一人一人、個人のクリスチャンに語られている。確かにこの世には、裕福なクリスチャンがいる。裕福なクリスチャンの行いを見て、「これぐらいは良いだろう。憐れみ深い神様は赦して下さるはずだ」と言って、自分の行いを正当化することも出来る。あるいは、その人たちと比べて、自分がどれほど貧しいかを主張することもできる。しかし、これらの言い訳は、主イエス様の御前では言えない。裕福か貧しいかは、他の人と比べて測れるものではない。

あくまでも、自分自身が、何を選ぶかが問われている。他のクリスチャンが何をするのか、しないのかは関係ない。神様を選ぶのか、それともこの世の富を選ぶのか。2つ両方、私たちは欲しくなってしまうかもしれない。しかし、主イエス様はそれはできないとハッキリと言っている。もしこの原則を実践しなければ、クリスチャンとしても成長が出来ないだろう。この世の基準で成功を収めても、クリスチャンとしては成功はできないだろう。

一方を憎んで、他方を愛するか、二つに一つしかない道だ。厳しい言葉ではあるが、これが主イエス様が教える真理の現実ではないか。主イエス様の戒めは、憐れみに溢れているが、厳しい真理をそのままストレートに言っている。来週のメッセージでは、今日の御言葉をもっと具体的に述べているマタイ6章25節-34節から学んでみよう。

結論 主イエス様の再臨の日には

いつかすべてが明らかになる日がくる。主イエス様が、すべての人間を裁くために再臨するときだ。死んだ人も生きている人も、すべての人間を裁く日がくる。

かの日には、すべての国民、民族が世界中から集められ、主イエス様のもとにひざまずく。神様の裁きが告げられる日だ。その日まで、私たちが主イエス様が教える原則に従って、この人生を歩めますように。

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