コンテンツへスキップ 投稿日:2023年4月23日/更新日:2025年12月30日
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慢心の心と自己吟味-ヨハネ9章39節

立って話すをする人たちと腕組みする男性

私たちの人生において、見えると思っていても、実際は見えてない時があるのではないでしょうか。何をすべきかもわかっている、この世の中の有様もハッキリわかっていると、確信を持っている時こそ、改めて自己吟味をすべきではないでしょうか。主イエス・キリストの言葉から、慢心の心がないかどうか検証してみましょう。

人間の心は複雑で、時には自己過信によって真実を見失ってしまいます。私たちが何かを知っていると思っているとき、それは実は自己中心的な視点から来ているかもしれません。過去の経験や、周囲からの評価が自己認識を歪めている可能性があります。このような時、私たちは他者の意見や神の声に耳を傾けることが重要です。

イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」ヨハネ9章39-41節 聖書協会

この言葉は、私たちがどれほど自分自身を知っていると思っても、常に謙虚な心を持たなければならないことを教えています。見える者が見えないようになり、見えない者が見えるようになるという逆転の発想は、私たちの信仰生活においても重要なメッセージです。私たちの信仰は、常に神によって強められ、光を与えられる必要があります。

見えていると思っていたパリサイ人たちの例

彼らは聖なる立場にありながら、何が真理かを見失っていました。これは現代のクリスチャンにも当てはまります。権威ある立場の人々が真理から逸脱することがあるのです。その結果、信者は霊的に盲目になり、自分自身を過信するような状況に陥ることがあります。このような状態を避けるためには、謙遜の心を持ち続け、神の言葉に耳を傾けることが必要です。

また、聖書を学ぶことは重要ですが、学びを深めることと並行して、実践を忘れてはいけません。真理を知ることが自己満足に繋がることがあり、それが慢心の心を生むこともあります。霊的な成長には、知識だけでなく、実践も伴う必要があります。

霊的に盲目になっていたパリサイ人たちに、主イエス・キリストは「あなたがたは父なる悪魔から出た者である」と言います。彼らは完全に悪魔によってだまされていたのです。ですから、霊的に真理を見えてなくても、見えていると考えていました。

慢心の心

見えていないと認識することの重要性

自己認識が欠如すると、誤った方向に導かれる恐れがあります。私たちは「自分はすでに知っている」と思い込むことなく、常に学ぶ姿勢を持つことが大切です。主イエス・キリストの教えを日々の生活に適用することで、私たちは霊的に成長し続けることができます。

また、他者の意見や経験を尊重し、共に学ぶ努力を忘れないようにしましょう。互いに意見を交換することで、私たちの理解は深まり、より豊かな信仰生活を送ることができます。そして、他者の意見に耳を傾けることで、自分の盲点に気づくことができるのです。

この自己吟味は、単に自分を責めることではなく、成長のためのチャンスと捉えるべきです。慢心の心を持たず、謙遜な心で自分を見つめ直すことで、私たちはより良いクリスチャンとして歩むことができるでしょう。

実は、現代に生きるクリスチャンにも、同じようなことが起こり得ます。聖書の権威と思われる学者たちが、聖書の解釈において論争しているのを見ることがあります。聖書をそれだけ知っていれば、霊的にも成長しているのだろうと思いがちですが、悪魔は学者たちのプライドをくすぐり巧妙にだますのです。

慢心の心

主イエス・キリストの光を求めて

主イエス・キリストの光を求めることで、私たちは常に新しい視点を得ることができます。霊的な光が心に与えられたとき、私たちは真理を見出し、正しい道を歩むことができるのです。日常生活の中で、意識的に神の言葉を取り入れ、実践することが大切です。

最終的には、慢心の心を持たず、常に謙虚であることが求められます。私たちが真理を追求し続ける限り、神の導きを受けて成長することができるでしょう。

日々の祈りや瞑想を通じて、主の声を聞くことができるよう努めましょう。「私の心に光を与えてください」と祈ることで、私たちの心は柔らかくなり、神の導きを受け入れやすくなります。そして、霊的に見えていない部分を明らかにし、成長を促すことにつながるでしょう。

主イエス・キリストは私たちを裁くために、天から降りてきたのではありません。むしろ見えない人が見えるようになるために、神様の真理を教えるために人と成られました。罪人である私たち人間は、主イエス様の御言葉を聞くことなしには霊的に盲目です。見えていません。

クリスチャンになって「見えている。他の人よりも真理を知ってる」と、おごり高ぶったらどうなるでしょうか。その時点で、主イエス・キリストが教える真理が見えなくなっているのです。

むしろ、「自分は見えていない。まだまだ、主イエス様が教える真理を理解していない。実践も出来ていない」と思っている位がちょうどいいのではないでしょうか。

手の上にある光る電球

主イエス・キリストが与える一筋の光

主イエス・キリストが与える人過ぎの光に、いつも感謝をしましょう。人間は、自分自身の力で光を放つことはできません。主イエス様の光によって、霊的な目が開かれるのです。もし幹である主イエス様から離れたら、枝であるクリスチャンは何も実を結ぶことはできません。

自問自答してみましょう。「今、自分は霊的にどこにいるのだろうか」と。常に主イエス様の光が照らし続けてくださるように、心を開き「見えていません。主よ、私の心に光を与えてください」と今日も祈りましょう。

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