コンテンツへスキップ 投稿日:2022年5月12日/更新日:2025年4月15日

マタイ5章17節-律法を廃止するためでなく成就するために

赤い影に十字架

マタイ5章17節ー20節。キリストは律法を廃止するためでなく成就するために来たと言っています。この聖句をどのように解釈すべきでしょうか。キリストと旧約聖書の律法の関係を考えてみましょう。旧約聖書の律法は、クリスチャンにとってどんな意味があるのでしょうか。

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。マタイ5章17-19節 聖書協会

キリストは、弟子たちが想像していたこととは、まったく違ったことを言いました。1世紀の弟子たちは、メシヤであるキリストが新しい秩序と律法のもとにイスラエルを復興させると期待していたのです。しかし、主イエス・キリストは、見事に彼らの期待を裏切りました。

キリストは、旧約聖書の律法を破棄(新共同訳では廃止と訳されている)するためにではなく、成就(完成)するために来たと明らかにしました。この言葉にユダヤ人たちは、困惑したに違いありません。律法の一点一画もなくならないといって、律法の重要さを強調したキリストは、どのように律法を成就したのでしょうか。

律法を完成(または成就)する解釈

解釈その1 律法を守る必要はなくなった

律法とキリストの福音について、ある注解者たちは、キリストの律法は旧約聖書の律法と相反していると解釈します。旧い契約は律法を守る事を強調しますが、新しい契約では人の心を強調すると考えます。ですから、新しい契約では、律法を守るという観点はなくなったと考えるのです。キリストが律法を成就した後は、神様の教えに律法的に従うよりも、心と信仰が重んじられるようになったと主張されます。

しかし、これは間違った解釈だと管理人は思います。神様は、旧約聖書でも新約聖書でも、常に人々の心を強調し、心から従う事を求めているからです。この一点について、神様は決して変わっていません。

解釈その2 モラル的な律法だけが引き継がれた

多くの学者たちは、律法を3つのカテゴリーに分けて考えます。つまり、第一にモラル的な律法、次に社会の秩序を守るための律法、最後に、罪のためのいけにえに関する律法です。

旧約聖書のいけにえは、新しい契約ではなぜ無くなったのでしょうか。それはキリストが、究極の罪の贖いとして、十字架で死んだからです。では他の律法はどうでしょうか。社会の秩序を守るための律法、たとえば、自分が持っている土地の境界線や病気の時にどのような服を着るかなどは、クリスチャンには当てはまりません。食事に関する律法も除外されます。なぜなら、これらの律法は、古代イスラエルの特殊な文化の中で与えられているからです。私たちは彼らと同じ社会、文化の中で生きていません。この学説によれば、モラル的な律法だけが、新しい契約では引き継がれているのです。

これは正しい解釈だとは私は思いません。キリストは、律法を3つのカテゴリに分けるようなことはしませんでした。神様は、律法によってイスラエルと契約を結びましたが、律法は生活のすべての分野に及んでいます。旧い契約では、イスラエルは神様を信じる信仰と神様を愛する愛を、心から神様に従うことによって実践するように命令されていました。

心から神様に従うことは、旧約聖書でも新約聖書でもその教えに従う時、生活すべてに関わります。罪のためにいけにえを捧げる時も、人に親切を施す時も、神様は心から従う事を求めていたのです。家で時間を過ごす時も、礼拝する時も、隣人を愛す時もいつもです。私たちがすることすべてが、神様への愛と隣人愛を示しているべきなのです。

キリストが律法を成就、完成させた意味

律法を廃止するためでなく

旧約聖書の律法は、イスラエル社会全体の秩序を保つために、イスラエルを祝福し守るために与えられました。その数え切れない律法の中から、キリストは「一番大切な律法は何か?」と聞かれ答えました。「主なる神を愛することと隣人を自分のように愛することが、一番大切な律法である」と明言したのです。

一番大切な律法と聞かれて、なぜ2つの律法を挙げたのでしょうか。それは2つの律法が、お金のお札の両面のような関係にあるからです。片方が偽であれば、それだけで偽札です。神を愛していると言いながら隣人を憎むことはできません。この2つの律法が与える基本原則に、キリストが律法を成就したすべての戒めが、包括的に含まれているのです。

旧い契約において誰一人として、主イエス・キリストのように、神様を愛し隣人を愛した人はいませんでした。信仰深い預言者でさえ、主イエス様のようには出来なかったのです。

主イエス様は、私たちがどのように神様を信頼できるのか、愛すのかを、身をもって示して下さいました。ですから、主イエス様は、信仰の創始者であり、完成者と呼ばれるのです。アブラハム、モーセ、ダビデ、信仰深い預言者でさえ、誰一人、主イエス様のように神様の律法を守った人はいなかったのです。

旧約聖書の律法は、たとえて言うならば家の型枠です。キリストは、その家の型枠に中身を付け加え、神の御心を具体的に示してくださいました。律法が成就された今、私たちは神の御心をイエス・キリストを通して知ることができるのです。

ですから、キリストは、人間の罪のために十字架で死んでいけにえの律法を成就させただけでなく、神様の律法のすべてを成就、完成させたのです。

キリストが古い律法を終わらせた

私たちが知るべき真理は次のようにまとめられます。イエス・キリストは、古い律法を終わらせ自身が律法の基準になって、新しい契約を確立されました。

キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために。ローマ10章4節 聖書協会

新約聖書の原語であるギリシャ語で読むと、この聖句には、2つの意味があるように思えます。一つは、キリストは旧約聖書の律法に終わらせたという意味です。二つ目は、キリストは、私たちが目指すべき律法の目標という意味です。また新改訳聖書の翻訳では、「律法が目指すものはキリストです」と翻訳されています。

旧約聖書と律法には、もう一つ大切な役割があります。旧約聖書を読むときにはこれはとっても重要です。

信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。ガラテヤ3章23-29節 聖書協会

旧約聖書を読むと、特別な人たちだけが神様の祝福を受けていることに気づかされるでしょう。人間の変わらぬ罪深さと愚かさにも、驚かされるのです。その罪ゆえにイスラエルは、神様の裁きを受けたのです。今も人間の罪深さと愚かさは、世界中で続いています。旧約聖書の内容は、私たち人間にはどうすることもできない罪の問題を投げかけています。

だからこそ、イエス・キリストの言葉と戒めが心に刺さるのです。キリストの愛に満たされた言葉で、私たちの心は動かされます。天の父なる神様の愛が、イエス・キリストの言葉を通して心に届きます。心をえぐります。旧約聖書は、このように私たちがイエス・キリストを受け入れるための養育係なのです。

キリストによって成就されたか神の救いの計画をしっかりと理解するために、旧約聖書と新約聖書の関係、旧い契約と新しい契約の関係をもうちょっと深く考えてみましょう。

キリストに成就された神の救いの計画

神様が、天地万物の創造からこの世の終わりまで、人間の歴史のページを、一枚ずつ上に重ねていると想像してみて下さい。この積み重ねられた一番上には、イエス・キリストの新しい契約があります。しかし、新しい契約以前のページがなくなる訳ではありません。人間の歴史を見る時、すべてのページが神様の救いの計画の一部だからです。

神様は旧約聖書の律法をキリストの律法で上書き保存しました。旧い契約は新しい契約で上書き保存しました。しかし、律法も古い契約も、神様の救いの契約とその歴史の大切な一部なのです。神様の計画から、律法と旧約聖書が削除されることはないのです。

神様の救いの計画は、天地万物が創造される前から始まっていたのです。今日でも、その計画は継続されています。救いの歴史のすべてのページは、私たちにとってとっても大切なのです。私たちは、毎年、年をとり成長していきます。だからといって、人生の過去のページを削除するようなことはしません。過去は、現在と未来と同じように大切なのです。なぜでしょうか。過去を振り返る事がなければ、自分がどこから来て、今、自分がなぜここにいるのかもわからないからです。

同じように、旧約聖書は新約聖書と同様に大切なのです。日々、キリストの律法を理解して感謝する時、神様がキリストがくる以前から、救いの計画を立てていたことを、私たちは思い出すべきです。

キリストを見つめて今日も生きましょう

主イエス・キリストと共に生きる人生は、終わりのない永遠の道です。日々、私たちは罪を悔い改め、イエス・キリストに帰っていきます。キリストと共に生きることは、私たちのマラソン・レースです。ゴールを目指してフィニッシュラインを目指して生きる霊的な競争です。

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。へブル12章1-2節 聖書協会

キリストに留まり、聖霊の助けによって、この霊的な競争を走りましょう。キリストについていくという決心を新たにして、今日もキリストの下に行きましょう。