コンテンツへスキップ 投稿日:2022年8月3日/更新日:2025年3月28日

隣人を自分のように愛しなさい

隣人愛の実践

この混迷の時代に私たちは、どのように生きるべきなのでしょうか。隣人愛の実践です。主イエス様の戒めである「隣人を自分のように愛しなさい」の原則に答えがあります。

人類の歴史は、一言でいえば波乱万丈。私たち人間は、古代から現代まで様々な形で、喜びや悲しみ、至福の時や苦難の時を経験してきました。不安と怒りが交錯する混迷の時代においても霊的に成長するために、クリスチャンは常に主イエス・キリストに目を向けて生きるべきでしょう。今日は、主キリストへの原点回帰として隣人愛について考えてみましょう。

「隣人を自分のように愛しなさい」は、どのように実践できるのか

では隣人愛をどのように実践できるのでしょうか。隣人愛の実践は、神を愛する実践よりももっと難しいと感じられるかもしれません。それは、隣人愛が非常に曖昧に定義づけされているからです。私たちは、隣人愛を誤解しているかもしれません。

主キリストは、どのように「隣人を自分のように愛した」のでしょうか。主は、神の愛によって、人にどのように接したのでしょうか。主は、「自分がしてもらいたいことを他の人にする」を実践しています。主は、私たちに完全なお手本を示しています。主の隣人愛の実践から3つの原則を学んでみましょう。隣人愛の原則は、この3つとは限りませんが、ここでは3つに絞って考えてみます。

1.人の自由意志を尊重する

神は、人を創造された時から、人の尊厳として自由意志を与えています。人は、操り人形ではなく「神に似せられた者」として創造されました。神は、何の束縛も受けない永遠なる神です。何にも縛られない自由をお持ちの神です。神は、その自由を人間にも分かち与えて下さっています。主キリストも自由意志を持っていたから、人の自由意志を尊重したのです。だから、主は「聞く耳のある者は聞きなさい」と、私たちを招いてくださっているのです。

神の愛は、確かに、私たち人間に対する一方的な愛です。そして、その永遠の愛によって、神は主キリストを十字架につけました。しかし、神は、私たち人間に十字架で示された愛を押し付けたりはしません。神は、私たち人間の悔い改めを忍耐強く待っておられるのです。同様に、主キリストは、忍耐強く人々に神の愛を解き明かしました。

しかし、主は、決して上目線で人々に話すことはありませんでした。なぜでしょうか。人々を自分のように愛していたからです。上目線で話している人、偉そうに話をする人を好きになれるでしょうか。主は、押しつけの善意などしません。神の愛という一番素晴らしい贈り物でさえ、主は押し付けたりはしません。たとえ良い物であっても、押し付けられてうれしい人はいないでしょう。

2.人のニーズ、求めているものを知ろうとする

主キリストは、私たち人間が必要なものを知っています。しかし、同時に私たちのニーズ、求めているものを知ろうとします。マルコ10・46‐52を読んでみましょう。主は、エリコの町で盲人の人に出会います。主は、この盲人が神との健全な関係を必要としていると知っていますが、それを押し付けず逆に「何をしてほしいか」とこの盲人に尋ねます。主は、決して上目線から人に話をするのではなく、人々のニーズを知ろうとする憐れみの心を持っています。

人が自分の心を打ち明けられる人とは、どんな人でしょか。また、人は、どのような人から学びたいと思うのでしょうか。「私は何でも知っている。あなたは何も知らないから、私が教えてあげよう」と偉そうに話す人から学ぼうとするでしょうか。どんなに博学であっても、このような人から学んでみたいと思う人は、少ないのではないでしょうか。主キリストのように心優しい、へりくだった人に、自分の心を打ち明けるのではないでしょうか。つまり、隣人愛を実践している「へりくだった人」に、私たち人間は心を開き、話を聞いてもらいたいと思うのです。

このように、主キリストは、私たちに隣人愛の最高のお手本を示して下さっています。私たちは、主キリストのお手本なしには隣人愛を学ぶことはできません。隣人愛の実践は、なおさらできません。主は、日々、私たちに「わたしから学び、隣人をあなた自身のように愛しなさい」と語りかけています。私たちが、心からへりくだり主から学び始める時、私たちの人生そのものが変わっていくのではないでしょうか。本当に意味で、聖霊によって新しく生まれるのではないでしょうか。

隣人を自分のように愛しなさい

3.人のベスト、人の成長を常に期待する

主キリストは、私たちのベスト、成長を期待しています。たとえば、マタイ5・43‐48を読んでみましょう。ここで、主は「敵を愛しなさい」と諭しています。神は、完全な愛で敵を愛します。その同じ愛を、主は私たちに求めています。1ペテロ1・16には、「神が聖であるように、あなたがたも聖になりなさい」とも書かれています。このように神は、私たちのベスト、成長を望んでいるのです。私たちも、隣人愛によって、隣人のベスト、成長を期待するように求められているのではないでしょうか。しかし、隣人を裁いたりはしません。上目線で見ることもしません。むしろ、その人のために神に祈るのです。

神は、私たちの成長を期待するからこそ、私たちが求めるものを与えて下さいます。マタイ7・7‐12を読んでみましょう。「求めなさい。そうすれば与えられます」と主は言っています。主は、御心によって人が求めている物を惜しみなく与えて下さいます。憐れみ深い神は、求める者の祈りに答えてくださるのです。私たちも、同じ憐れみの心が求められています。自分が憐れみを受けたければ、他の人にも憐れみを施しなさいと。

私たちは、主キリストに習い、人にしてもらいたいことを隣人にもします。この隣人愛の実践には、敬虔な祈りと健全な自己愛が必要です。自己愛といっても「自分の欲求を満たす自己中心的な思い」ではありません。自分が神によって創造されて、愛されている自覚に基づく自己愛です。隣人も、同じように神によって創造され愛されているからこそ、「隣人を自分のように愛しなさい」と諭されているのです。

結論 隣人愛の実践

「神は不思議な方法で働かれる」という言葉を聞いたことはありますか。隣人愛の実践による成長が、まさに不思議な方法といえます。「クリスチャンの成長は個人的なもの」と考えられがちですが、真理はその逆だと私は思います。隣人愛を実践する人も隣人愛を受ける人も、両方が成長するようになります。隣人愛には、良い相乗効果があるのです。

箴言27・17「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」は、まさに隣人愛の関係を持っている人たちに当てはまることばです。「隣人愛を通してお互いが磨かれる関係を築いていく。」これが、神が定めたクリスチャンの成長の原則(他にも成長の原則はありますが)だと私は思います。

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