こんな言葉がある。「その愛の大きさは、そのために支払われた犠牲の大きさで分かる」。ルターが“小聖書”と呼んだヨハネによる福音書3章16節には、その犠牲の大きさと共に、それに比例する神の愛の大きさが述べられている。神の恵みを「安価な恵み」(D. ボンヘッファー)としないためにも、ぜひ、しっかりとその大きな神の愛を受け留めたい。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 (ヨハネによる福音書3章16節) 聖書協会
バレンタインデーの逸話
二月と言えば、バレンタイン・デー。諸説ありますが、おおよそ次のような逸話に基づくようです。・・・紀元3世紀頃、時のローマ皇帝・クラウディウス二世は、若者が出征を拒否したり、戦地で士気が下がる最たる理由を、愛する妻を故郷に残すことにあると決め付け、なんと結婚自体を禁止してしまいました。そんな中、悲しむ若者たちのために、司祭のウァレンティヌス(=バレンタイン)はひそかに愛し合う者たちの結婚式を執り行なったというのです。それに激昂した皇帝は、やがてウァレンティヌスを処刑。その処刑日が結婚の守護女神ユーノーの祝日でもあったことから、毎年そんな2月14日には、ウァレンティヌスを偲びつつ、愛する者たちがその愛を告白し合ったという訳です。ある意味、ウァレンティヌスは、大きな犠牲を払って、愛する者たちへの“愛のとりなし”をしたと言えるのではないでしょうか?
冒頭に掲げました聖書の言葉は、かの宗教改革者マルチン・ルターが、仮に聖書全体が消失してもこの箇所が残るなら聖書の大切なメッセージは伝わり得るという意味で「小聖書」と呼んだと言われる箇所です。私もこの箇所を忘れないために車のナンバー・プレートに採用しています。<ち43-16>と。
聖書が示す神は、その最も大切なはずの愛する一人子(=イエス・キリスト)の命を犠牲にしてまで、私たちを救って下さいました。考えてみて下さい。いかなる理由があろうと、親がその愛する一人子の命を犠牲にできるでしょうか?十字架の贖いのみわざには、そのようなとてつもなく大きな犠牲が払われていると言わざるを得ません。
神の愛の大きさ

こんな言葉があります。「その愛の大きさは、そこで支払われた犠牲の大きさで分かる」。ヨハネによる福音書3章16節に示された神の愛には、大きな大きな犠牲が支払われていることを確認できるのです。
ある国に、それぞれ世界一の物を一つずつ持っているという男が三人いました。一人はどこまでも見通すことのできる望遠鏡を持つ男。もう一人はどこまでも行ける空飛ぶ絨毯を持つ男。そして、あと一人は、どんな病気をも治す木の実を一つ持つ男でした。
ある日、どこまでも見通す望遠鏡を持つ男が、遠くの国のお城にこんな張り紙があるのを見つけました。「我が愛する娘が重病じゃ。この娘の病気を治し、娘に大いなる愛を示した者に我が娘を与える。王より」。三人は早速、どこまでも行ける空飛ぶ絨毯を持つ男が指し示した空飛ぶ絨毯に乗って、そのお城へと急ぎました。そして、王の前に出た三人は言います。「我々が王女様を治すためにやって来ました」。そう言って、どんな病気をも治す木の実を持つ男が早速、王女にその木の実を食べさせます。すると、なんと、王女は即座に病気が全快いたしました。
そこで、喜んだ王はその娘である王女を「娘の病気を治し、娘に大いなる愛を示した者」に嫁として与えようとしますが・・・はたして、三人の中のどの男に王女を与えたらよいものか、王は迷ってしまいました。確かに、三人の誰一人が欠けても王女は助かりませんでした。熟考した挙句、最終的に、王は、どんな病気をも治す木の実を持つ男に王女を嫁として与えたというのです。
なぜでしょうか?・・・なぜなら、このどんな病気をも治す木の実を持つ男だけが持っている者を失ったからです。他の二人は、ある意味、失ってはいません。どんな病気をも治す木の実は、与えたら失うことになるのです。そこには、間違えなく、犠牲が払われたのではないでしょうか?
イエス・キリストの犠牲
「その愛の大きさは、そのために支払われた犠牲の大きさで分かる」。・・・私たちの罪の赦し、その救いのために、イエス・キリストはご自身の命をささげて下さいました。父なる神はその愛する一人子をお献げ下さいました。ここには信じられないくらい大きな犠牲が払われているのです。
このバレンタイン・デー、高価な義理チョコのために高額を支払うよりも、主の目には高価で尊い私たち一人一人のために極めて大きな犠牲を払って下さった主なる神の“愛のとりなし”に感謝し、応答して、私たちもできることなら、誰かに小さな愛を分かち合おうではありませんか?・・・チョコっとでも!?
「まず恵みありき」。・・・まずは、それはそれは大きな神の愛をしっかりと受け留めたいと思います。