しるしを求める悪い時代に、イエスがしるしであることを告げます。罪を明らかにし、贖うお方を見よと命じます。主のみことばを信じ、光を台無しにするようなことがないように、気をつけなさいと語ります。あなたがたは世の光です、と主イエスは言いました。どの時代にあっても主のあかりを灯し歩む者でありたいと願います。
群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」ルカの福音書11章29-36節 聖書協会
エルサレムへの道
「天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、」都はさらに近づきます。イエスの周りに集まる群衆に語ります、「この時代は悪い時代です。」イエスのところに来たら、しるしを求める悪い時代と指摘されます。新たなしるしを求めたでしょう。ヨナのしるしのほかには与えられていません。反発したでしょう。
「というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。」
ヨナと人の子イエスが重なることは、神のみこころを成すため遣わされ、働くことです。また、預言者となり、人々の罪を明らかにします。ニネベの人々は罪を悔い改め救われます。しかし、群衆はみことばを聞かず、悔い改めず、しるしを求めるだけです。彼らに、この時代のためのしるしがイエスです、と語ります。イエスが決定的しるしです。ここに神がおられることを、あなたがたは見ているのか、と語ります。
さらに南の女王を取り上げます。ソロモン王の知恵に憧れ来た者です。王の背後におられる神を讃えます。群衆は女王が見た神を見ようとせず、しるしを求めます。彼らに神を見る信仰が生まれることはありません。信仰は、人が獲得するものではなく、与えるお方を信頼し受けます。しるしをいくら見ても、さらにしるしを要求するでしょう。自分たちの思いで一杯の彼らには、神を見るこころの空間がありません。
すべてにまさるお方
群衆に「見なさい。ここにはヨナよりもまさった者がいるのです。」神に遣わされた預言者、魚の中で三日間閉じ込められ生還したヨナです。彼の説教でニネベの人々が悔い改め、神の赦しに与りました。イエスの予型のヨナです。イエスが言います。「ヨナよりもまさった者」がここにいます。ヨナを、女王、そしてソロモンまで取り上げ語ります。見ようとしない群衆に「見なさい、ヨナにまさるものを」と呼びかけます。
イエスがヨナよりまさるのは、イエスが神の子、地上に現われた神だからです。預言者であると同時に、イエスご自身が生けるみことばです。ソロモンよりもまさる点は、女王が王の背後の神を讃えたが、イエスご自身が神です。イエスは群衆に、ヨナやソロモンにまさるものを見なさい。ここに立つわたしを見なさい、と言います。

罪を定め贖うお方
女王は「この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。」また、ニネベの人々が「この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。」ヨナと女王を通したしるしは、時代の人々とともに立ち不信の罪を定めます。異邦人のニネベの人々、女王が神のしるしに与りながら、イスラエルの民がしるしを見逃します。
「人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。」イエスご自身がしるしとなり人の罪を定めます。罪を定めるだけではありません。ヨナにまさり、罪を贖い、罪人を救う父なる神のしるしとなります。罪を明らかにするお方は、私たちの救いを実現します。「見なさい。ここにはヨナよりもまさった者がいるのです。」罪を定め、贖う、救いのしるしのわたしを見なさいと命じます。
しるしからあかりへ
群衆に「見る」ことを促し、そしてあかりについて語り始めます。彼らは自分たちが見たいしるしに心が引きずられ、心が暗やみです。彼らに語りかけるイエスこそしるしである真実が見えないのです。見ようとしない、と言ったほうがよいでしょう。その心の闇を照らすべく語ります。
「だれでも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来る人々は、その光が見えるためです。」
しるしからあかりへ展開します。あかりが灯されたら照らすところに据えます。いまここに照らすあかりがいます、と皆の目を開きます。イエスが皆を照らす真のあかりです。しかし、彼らはこのあかりを、まるで穴倉や、枡の下に置くようなことをしています。あかりに無関心で、無視する生活でしょうか。礼拝を横に置いてしまう生活でしょうか。神を神としない生き方でしょうか。あなたとあかりの関係を語り始めます。
「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」
あなたとあかり
家のあかりを聞いていたら、突然「あなた」と呼びかけます。自分の目とあかり、あかりと自分のからだのことです。あかりは外からです。外のあかりを取り入れ、初めてあかりが自分のなかに灯ります。あかりが入れば全身も明るくなるのです。あかりが入る目の健全さを問います。群衆は目の前の真のあかりに気がつかず、暗いままです。自分事で飽和状態の心に真のあかりを見ません。
「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」あかりに気づいていない「あなた」に語ります。イエスは、あなたのうちの光が、と語ります。イエスのことばを聞くことが光にあることでしょうか。わかりません。しかし、わかることは光を暗いものでさえぎらないように、です。受ている光を暗いものにしないよう注意しなさいと語ります。光を台無しにするようなことがないように、気をつけなさいと語ります。
「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」
「もし」は、そうなるか、ならないか不確定の「もし」ではなく、そうなる肯定的仮定の「もし」です。目が健やかなら、あなたは明るくなり、あかりがあなたを照らし、あなたが輝きます。あなたがたは世の光です、と主イエスは言いました。どんな時代も主イエス・キリストのあかりを灯し、輝く、主イエス・キリストで歩む者とされますよう祈り願います。
