//Google Tag
コンテンツへスキップ 投稿日:2023年4月21日/更新日:2025年11月16日

信じるか信じないかの二者択一-ヨハネ9章

盲人が癒される

多くのクリスチャンは、「信仰」を「信じるか信じないかの二者択一」で考えています。しかし、これはクリスチャンが持つ信仰の真実を語っていません。信仰は、主イエス様の祝福を通して徐々に成長していきます。ヨハネ9章を解説して、クリスチャン信仰の真実を探ります。

信仰とは、時に私たちが目に見えないものを信じる勇気を持つことです。歴史を振り返ると、多くの信者がどのようにして信仰を深めていったのかが分かります。例えば、聖書の中でのアブラハムやモーセのように、神からの召しに応じて行動することで、新たな理解や信仰の成長がもたらされました。このように、私たちも日々の生活の中で、信仰が育っていくことが理解できるでしょう。

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。…イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。…:そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」…そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。…さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」…彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。…」彼は答えて言った。「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」ヨハネ9章1‐33節 聖書協会

ヨハネ9章は、ある盲人の人が主イエス・キリストによって癒され、目が見えるようになった話です。この人が物乞いをしていた盲人だと知っていた人たちは、彼にどのように目が見えるようになったかを尋ねます。しかし、この人はイエス・キリストが誰なのか、どんな人なのか、どこにいるかも知りません。自分が生まれつき盲人であったけれど、このある人に癒されて見えるようになったことだけを認識していたのです。これが彼の最初の信仰の始まりです。

この物語は、イエスがどのようにして私たちの人生に介入し、変化をもたらすのかを示しています。神の力によって癒されることは、単なる肉体的な回復だけでなく、精神的、霊的な成長をも意味します。私たちもまた、イエスに出会うことで新たな視点を得ることができるのです。信仰が、この人の人生においてどのように育ったのかをかを検証してみましょう。

信じるか信じないか

「あの方は預言者です」と信仰告白

癒された人は、パリサイ人たちに連れていかれました。そして彼は同じように尋問を受けるのです。パリサイ人たちは、癒し主がイエスであると想像していましたが、実際にはハッキリとしらなかったのです。そこで彼らは、癒された本人に「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどのように思うのか」と聞くしかありませんでした。

盲人の癒しのエピソードは、私たちに信仰の力を教えてくれます。この物語では、彼が実際に目が見えるようになることで、ただの物乞いから神の証人へと変わっていく姿が描かれています。信仰告白は、単なる言葉ではなく、私たちの心からの叫びです。彼は、ユダヤ教の権威者たちであるパリサイ人たちに「あの方は預言者です」と信仰告白をしたのです。これは勇気ある発言です。盲人であり罪人の最たる者として見下げられていた人が、パリサイ人たちに信仰告白したのですから。

この癒された人とは対照的に、パリサイ人たちの反応は、当時の宗教的権威の頑なさを示しています。彼らは目の前に奇跡を見たにもかかわらず、それを受け入れず、疑問を持ち続けました。そこでパリサイ人たちは、なぜ目が見えるようになったのかを彼の両親に問い詰めます。生まれつき盲人であったのは、嘘ではないかと疑い始めたのです。頑な心は奇跡を見ても、真理を拒み続けました。

このような姿勢は、信仰の本質を歪めるものです。このような閉ざされた心は、常に人を迷いに導きます。

湖の上に渡る橋

「あたながたもあの方の弟子になりたいのか」

イエスへの信仰は、ただの心の中の思いではなく、行動に移すことで真実となります。彼が「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と尋ねた時、それは自らの信仰を公にする勇気ある行動でした。私たちもまた、信仰を持つ者としての行動を通じて、周りに良い影響を与えることができます。

パリサイ人たちは再度、彼を呼び出して厳しく詰問します。彼らは完全に悪魔にだまされ、イエスが罪人であると信じ込んでいました。ところが、彼はパリサイ人たちの宗教的な権威に挑戦し始めます。

自分が盲人であったけれど、イエスが癒してくれたことの事実を告白します。パリサイ人たちがイエスに興味を持っているのを知り、皮肉として「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」とチャレンジするのです。「あの方は預言者です」という告白以上の信仰で、パリサイ人たちの不信仰を逆にチャレンジしたのです。さらにこの会話の中で、彼は自分の信仰告白することにより、パリサイ人たちに説教をし始めたのです。これにはパリサイ人たちは怒り心頭しました。

ユダヤ教指導者に叱責されても、彼の信仰告白はここで終わりませんでした。イエス・キリストが神から来たのでなければ、自分の目を癒すことなど出来ないと宣言します。これこそ究極の信仰告白です。この信仰告白の結果、彼は追い出されてしまいます。

見えない者は見えるようになる

この人は、再度イエス・キリストに出会います。盲目の時は声は聞いていましたが、姿は見ることはできませでした。彼は、今、面と向かってイエス・キリストを見たのです。キリストを信じたいという信仰から、キリストを見て、「主よ、わたしは信じます」に変えられたのです。

信仰はこのように徐々に成長していきます。この話は、2000年も前の話ですが、私たちの信仰も同じように成長していきます。主イエス・キリストは最後に言いました。

わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。ヨハネ9章39節 聖書協会

自分は人生について見えると思う人は、最終的には見えなくなってしまいます。ところがイエス・キリストに助けを求める人は、人生の道をハッキリと見極めることが出来るようになります。心に光明を受けて、暗闇から抜け出せるのです。

信じるか信じないか

信じるか信じないかの二者択一 誤った信仰

主イエス様を見ることは出来ないけれど

今、私たちは肉眼でイエス・キリストを見ることは出来ませんが、多くの人たちは信じて素晴らしい神様の恵と愛に満たされた人生を送っておられます。

主イエス様は死から再臨された後、天に上げられました。この後、3000人の人々がクリスチャンになり教会が始まったのです。しかし、この人たちも我々と同じように、主イエス様を肉眼で見ることはなかったのです。神様は霊なる方です。目に見えないところで働いておられるお方です。だから、主イエス様は次のように言っています。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。(1ペテロ1章8-9節)聖書協会

人は主イエス様を信じて従い、主から学び続ける時、人知を超える恵みを受けます。言葉では説明できないほどの恵みです。大金持ちにはなりませんが、生きていくために必要なものは与えられます。また霊的な恵み、内なる恵みも与えられます。信仰であり、希望であり、愛です。誰もこの恵みからクリスチャンを引き離すことは出来ません。

信仰は育つ、育む、養われる

信仰は信じるか信じないかの二者択一ではありません。最初の信仰は、からし種のように小さいものです。しかし、信仰は神様の恵みによって育ちます。育みます。養われます。盲人の人が癒され、どのように彼の信仰が強められたのでしょうか。

信じるか信じないかは私たち一人ひとりの選択ですが、同時に神様の導きもあるのです。神は私たちに信仰の目を開き、真理を理解させてくれます。私たちが直面する困難や試練は、信仰を深めるための機会です。イエスの教えを心に留め、日々の生活の中で実践することで、私たちは真の喜びを見出すことができるのです。

しかし、私たちの信仰の旅路は一朝一夕ではありません。私たちも、日々の生活の中でイエスに出会い、信仰を強めていく必要があります。信仰とは、ただ受け身でいることではなく、能動的に求め、成長するものです。イエスを信じたいという思いを持ち続け、神との関係を深めていきましょう。

現在、主イエス様は天地万物のすべてを支配しておられ、父なる神様の右に座っておられます。あなたは主イエス様に興味をお持ちでしょうか。主イエス・キリストによって、心の目が開かれますように。また主イエス様の尊い愛に満たされますように、心よりお祈り申し上げます。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください