誰の人生にも、悲しみと喜びは付き物です。その悲しみと喜びは、私たち人間の人生を変える出来事と共に起きます。弟子たちの悲しみが喜びに変えられます。ここに全人類の歴史を変える出来事が起きました。すべての人の人生を変えることができる主イエス・キリストが、十字架上で死なれ、死から復活されたのです。約2000年前、イエス・キリストの弟子たちは、主の十字架の死を見て悲しみ、復活を見て歓喜の声をあげたのです。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」・・・「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」ヨハネ16章16-22節 聖書協会
キリストの預言 悲しみが喜びに変わる
キリストが預言した「弟子たちが悲しむ日」とは、何のことでしょうか。言うまでもなく、この世で生きたイエス・キリストが、十字架上で死んだ日です。
キリストの預言を、21世紀に生きる私たちに当てはめて考えみましょう。私たちが生きている間、必ずいつかどこかで悲しみを経験します。自然災害、人災、犯罪・・・・。私たちが向き合う困難は、数限りなくあります。しかし、「悲しむ者は幸いです」と主キリストが言うように、私たちの悲しみを神様に向けると、その悲しみは幸いに変えられるのです。
悲しみは喜びに変えられるのですが、これは神様が神の民に定めた摂理ではないでしょうか。キリスト者はどんなにどん底に落とされようと、最後には勝利が待っています。喜びが待っているのです。
1世紀の弟子たちは、キリストの十字架の死を見て、途方に暮れていました。「先生が力なく死んでしまった」と思っていたでしょう。その弟子たちの思いは、見事に裏切られたのです。キリストは、悪魔の力に打ち勝ち、死からよみがえられたのです。復活の主です。弟子たちは歓喜の声を挙げました。このパターンは、聖書の物語の中に何回も出てきます。

私たちの悲しみが喜びに変わる時
人の人生のパターンは、人類の歴史が始まって以来、変わりはありません。山あり谷ありの人生だからこそ、人は成長できるのではないでしょうか。キリスト者にとっては、谷にいる時こそ、キリストに目を向けるときです。希望の時です。私たちは、いつも主にあって希望をもって生きていけるのです。パウロは、次のように書いています。
現在の苦しみは、将来わたしたちに現れるはずの栄光に比べると、取るに足りない・・・。誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょうか。患難か。苦しみか。苦しみか。飢えか。裸か。危険か。剣か。ローマ8章18、35節 聖書協会
私たちの人生には悲しみが訪れることがありますが、それはまた新しい喜びが生まれるためのプロセスでもあります。例えば、大切な人を失った時の悲しみは、一時的なものかもしれません。しかし時間が経つにつれて、その人との思い出を大切にし、新たな喜びを見つけることができるのです。このように、悲しみは私たちにとって成長の一部であり、喜びに変わるきっかけとなります。
このように、私たちが抱える悲しみは、時には大きな試練として私たちの前に立ちはだかります。しかし、神の言葉に耳を傾けることで、その試練を乗り越えることが可能です。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」という言葉は、ただの慰めではなく、実際に私たちの信仰を試すチャンスでもあります。たとえば、経済的な困難に直面している時、この言葉を思い出し、希望を持つことが大切です。
キリストが私たちに示したことは、悲しみの中にある希望です。主キリストの言葉を思い出すことは、私たちの心に光をもたらすのです。例えば、日々の生活の中で小さな喜びを見つけることができれば、悲しみも和らいでいくでしょう。友人との笑い合う時間や、自然の美しさに触れることで、心が癒されることを実感できます。
悲しみは私たちの人生において避けられない一部です。しかし、その悲しみをどう受け止めるかが、私たちの成長に大きく影響します。イエス・キリストの教えは、私たちがその悲しみを乗り越え、喜びを見出すための道しるべとなるのです。
私たちの周りには悲しみを抱えている人が多くいます。その時、私たちはどのように接することができるのでしょうか。例えば、友人や家族が辛い時に寄り添い、話を聞いてあげることで、その人の悲しみを少しでも和らげることができるでしょう。私たち自身もその経験を通じて、他者の痛みを理解し、共感する力を育むことができます。
悲しみは、時には私たちを非難する声に変わることもあります。しかし、キリストの教えを信じることで、私たちはその声を乗り越え、自分を大切にすることができるのです。たとえば、失敗や挫折を経験した時に、自分を責めてしまうことがありますが、その時こそ神に助けを求め、心の平安を取り戻すことが重要です。
このように、喜びへの道は自分の内面から始まります。キリストが私たちに与えたメッセージは、自己肯定感を育てることでもあります。小さな成功や喜びを見つけることで、私たちの心は少しずつ強くなり、悲しみを乗り越える力となるのです。

人生再生の主、逆転の主イエス・キリスト
復活のキリストは、私たちに希望を与える存在です。この希望を抱くことで、どんな辛い状況でも立ち上がる力を見出すことができます。例えば、病気や失業といった困難に直面している時も、キリストの存在を感じることで新たな道を見つけることができるのです。
私たちが直面する困難は、単に過去の経験に基づいたものであることも多いです。ですが、未来には新たな可能性が広がっているのです。私たちが信じることで、未来に向かって進む勇気を持つことができ、その先にある喜びを見つけることができるでしょう。
このように、私たちの人生の中には、悲しみが喜びに変わる瞬間が必ず訪れます。それを信じ、日々の生活の中で少しずつでも前進することが大切です。時には後退することもありますが、それもまた学びの一部です。重要なのは、神を信じ続けることです。

悲しみは喜びに変えられるというキリストの言葉は、21世紀に生きる私たちにも当てはまります。読者の方々の中にも、人生のどん底を味わった方がいるかもしれません。また、現在どん底を味わっている方もいるかもしれません。しかし、明けない夜はありません。夜が終わり太陽が昇り、明るい光に満ちた日が来ます。この原則で、私たちの人生も動いています。
私たちが悲しみを経験する時、その悲しみが私たちを成長させる糧となります。例えば、新しい挑戦に対する恐れや不安も、悲しみから得た教訓を生かすことで乗り越えられるのです。これにより、私たちはより強く、より深い喜びを感じることができるようになります。
結局のところ、悲しみが喜びに変わるプロセスは、私たちの信仰の成長を促すものです。最終的には、私たちが経験するすべてのことに意味があることを理解できるようになります。そして、その喜びは、私たちの人生をより豊かにするものなのです。
人生再生の主イエス・キリストを見上げる
私たちが信じる主イエス・キリストは、人生再生の主です。日々、私たちを清めてくださり、新しくしてくださいます。肉体的な体は徐々に衰えていきますが、キリスト者の霊は信仰によって強められ、日々、聖霊なる神様によって造り変えられているのです。悲しむことがあっても、常に喜びへの橋がかけられています。
キリストは逆転の主です。復活の主です。野球の9回の裏、10対0で負けていて絶望的であっても、主イエス・キリストの力によって逆転できるのです。人生の絶望は、キリストによってかき消されています。聖霊の力によって、どんな困難もどんな敵に対して勝利が約束されているのです。
終わりの時には、この世に不法がはびこり多くの人の愛が冷えていくと預言されています。21世紀が終わりの時代です。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。主イエス・キリストに目を向けて、今日も生きていきましょう。
