コンテンツへスキップ 投稿日:2025年2月21日/更新日:2025年3月14日

ヨハネの福音書15章1節-主はぶどうの木

葡萄の木

「主はぶどうの木-弟子はぶどうの木の枝である」と、主イエス様はヨハネ15章1‐6節で教えています。この短い聖句には、キリストと弟子の関係について絶対的な真理が語られています。クリスチャンにとっては、必修科目のような聖句です。ごいっしょに考えてみましょう。

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。ヨハネ15章1‐6節 聖書協会

ぶどうの木の幹から広がる枝

ぶどうの木はどんな植物でしょうか。英語ではVINEです。この種の植物は、幹からどんどん枝が分かれていって、距離は離れていてもつながっていれば実を結ぶタイプの植物です。下の写真はちょっと極端な例ですが、見てください。

主はぶどうの木-弟子はぶどうの木の枝

私が数十年前に所属していた教会では、ぶどうの木を育てていました。木の幹そのものが大きくはないのですが、その幹からつながる枝が格子目状の板の間を四方八方に伸びていくのです。それぞれの枝からぶどうが育っていました。

主イエス様は、ご自身と弟子の関係を、このぶどうの木にたとえて説明しています。主イエス・キリストは、ぶどうの木であり、弟子たちは幹につながっている枝なのです。これ以上、完璧なたとえはないでしょう。このたとえの中で主イエス様は非常に大胆なことを言っています。人間の目からすれば、「え~~本当なの?」と思いたくなる言葉です。

神様の手入れ、実を結ばない枝とつながっていない枝

実際のぶどう栽培でも、その枝が幹からどんなに離れていても、幹とつながっていれば実を結びことが期待されています。しかし、つながっていても実を結ばない枝は切られてしまいます。主イエス様と弟子の関係でも、この霊的な手入れが行われます。つながっていながら実を結ばない人とは、どんな人のことを指しているのでしょうか。実際、どのような人か特定するのは難しい事でしょう。なぜなら、神様の裁きだからです。私たち人間が判断できることではありません。むしろ、これは一人一人の信仰に関する問題です。

主イエス様の弟子であるクリスチャン一人一人が、主イエス様のこの戒めを真摯に受け止めることが求められています。主イエス様とつながるとはどんな意味なのかを自問自答してみましょう。私たちは自分の行いではなく、神の恵みによって救われているのですが、それでも自分の信仰を吟味するのは霊的な健康診断として良いことだと思います。

  • 日々、主イエス様を求め御言葉を読み、祈りに励んでいるか。
  • 神様の御国と義を何よりも求めているか。
  • 主イエス・キリストの教会で主の兄弟姉妹と共に礼拝にあずかっているか。
  • 主イエス・キリストの十字架と復活と再臨を覚えて、主の晩餐に与っているか。
  • 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、神である主を愛しているか。
  • 隣人を自分のように愛しているか。

神様の霊的な手入れは、クリスチャンに鍛錬として与えられる事があります。この鍛錬は、多くの場合、様々な試練としてやってきます。神様がそのクリスチャンを試している時です。次のように書かれています。

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。へブル12章11節 聖書協会

このように神の手入れがなされ、クリスチャンは鍛錬という試練を通して成長していくのです。試練も神の恵なのです。もう少し具体的に自分の信仰を吟味してみましょう。御霊の実として肉の実をパウロは、次のように対比しています。

肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。ガラテヤ5章17-23節 聖書協会

クリスチャンではない方々でも、善意をもち誠実な方はいらっしゃいますが、クリスチャンの基準は、世の中の基準を超えています。なぜなら、神の裁きが待っているからです。肉の欲望によって生きる人は、神の御国に入ることも許されていません。しかし主イエス様につながって聖霊に満たされている人は、主イエス様の御言葉によって清められているのです。そのような霊なる人は、無意識にも聖霊の実によってキリストの香りによって周囲を和やかにするでしょう。

憐み深い主イエス・キリストは、つながっていない人は枝のように投げ捨てられ焼かれてしまうと言っています。農夫である神様は、ぶどうの木を手入れしてくださいます。一見ぶどうの木につながっているようで、実はつながっていないとは、どのような人でしょうか。自分自身に当てはめて、自問自答するのは大切なことだと思います。しかし、事例をあげてどのようは人かを判断するのは不可能です。

神様の手入れは、神様の裁きでもあります。裁きは父なる神様だけがなさるビジネスです。私たち人間が入る領域ではありません。だから、神様を畏れ敬い主イエス・キリストに日々つながって生きていこうと、クリスチャンは日々精進するのではないでしょうか。

結論 主につながっていなければ、弟子は何もできない

主イエス様は、もう一つ衝撃的な真理を私たちに明言します。弟子は主イエス・キリストにつながっていなければ、何も出来ないと。これはどんな意味でしょうか。

主イエス様と弟子の関係は緊密な関係ですが、人を束縛したりはしません。そこには罪から解放された自由と神様の恵みがあります。信仰・希望・愛があります。さらに、主イエス様と弟子たちの間には、明らかな主従関係が存在します。弟子が主キリストにつながっていれば、弟子は日々の生活の中で主人から生き方を学びます。主人に従うのが、弟子の生き方であり、また義務であり特権なのです。この主従関係なしに、クリスチャンは生きることもできないのです。

この真理は、主イエス様がご自分と父なる神様との関係を説明した時にも語られています。「子は父から離れては何もできない」ように、弟子は主イエス・キリストから離れては何の力もないのです。

21世紀に生きるクリスチャンもまったく同じです。この真理を知っているにもかかわらず、愚かな罪人である私たちは、主イエス様に頼らず自分の力や知恵に頼って計画を立てたりします。無駄な労苦です。何の実を結ぶことはできないで終わります。主イエス・キリストから離れては何の実りもない、と覚悟しましょう。聖霊を通して行われる神様の働きは、不思議なわざです。私たちが気づかない間に成されています。聖霊の実が、弟子の生き方に現れます。主キリストのアロマが、私たちの内からわき出てくるのです。今日も主イエス様につながって生きていきましょう。

読者の皆様の上に、主イエス様の尊い恵みが宿りますように、心よりお祈り申し上げます。