人は何を信じて生きているのでしょうか。何も信じない人であっても、何かを信じて生きています。しかし、もう一つ重要な質問があります。それは「なぜ信じているのか」という疑問です。信仰についての疑問を考えます。
世の中には様々な宗教があり、またキリスト教にも様々な教派が存在します。宗教によって、信仰と信じる対象は違います。または、「まったく何も信じないという無宗教」の選択肢もあります。しかし、これは目に見えるものだけを信じるという宗教の一種だと思います。
信仰についての疑問
何となく生きていても、何も考えずに生きていても、人は何かを信じて生きていると私は思います。なぜならば、人間はそのように創られているからです。信仰の対象が何であれ、何か苦しいことがあると、思わず天を見上げてしまうことはないでしょうか。少なからず多くの人たちは、衝動的に天(空)を見上げてしまいます。
東日本大震災が起きた時、多くの人たちはすがるような思いで、「早く終わってくれ」と願ったでしょう。地震=物理的な地殻変動に過ぎないと考える人であっても、また何も信じないと自認している人であっても、「地震よ、早く終わってくれ」と、目に見えない力に願ったはずです。このように、人間は霊的な存在として創造されているのではないでしょうか。
何を信じているのか
宗教・教派の数だけ、違った信仰があります。学会員は、池田大作を師と仰ぎ、池田流日蓮宗を信心してきました(顕彰会の日蓮宗もあります)。また敬虔なカトリック信者は、カトリック教会が神の恵みの唯一の管であると信じています。モルモン教は、まったく違った宗教とも思えるキリスト教の一派です。(モルモン教はキリスト教ではない、と多くの正統派のキリスト教の牧師は考えます。)エホバの証人も特殊な信仰をもっており、他のキリスト教派とは異質です。
私は上記の宗教団体を含め、多くの信仰深い方々のお話を聴く機会が与えられてきました。軽い気持ちで入信した人など、私がインタビューした方の中ではいませんでした。どの方々も、それこそ命がけで(妄信的に思える時もありますが)宗教を実践しているのです。
なぜ信じているのか
「何を信じているのか」という質問も大切ですが、「なぜ信じているのか」は数倍重要ではないかと私は思います。何が正しいのか、何が信じるに値するのかは、人それぞれ違います。その価値判断は、個人に任されています。
しかし「なぜ信じるのか」の疑問は、自分の動機に問いかけています。たとえば、「あの先生が言っているから、正しいに違いない」と、多くの人たちはこのような動機を持って入信します。つまり、人間を媒体に信じているわけです。実際、多くの新興宗教は、ある特定の人物から始まり、広がっていきます。
また他の人は、「これだけ多くの人が信じているだったら、これは本当ですよね」と考えて、他責思考で宗教に入り込みます。別の人は、友達のつてで、宗教にはまるかもしれません。
一人ひとりに届くメッセージ
「みんなが行くから僕も行く」モードで、ある人たちはクリスチャンになるかもしれません。このような「道連れ」モードを一度捨てましょう。
イエス・キリストのメッセージは、一人ひとりに届いています。「心を騒がせるな。神を信じなさい。わたしをも信じなさい。わたしに倣い、わたしに学びなさい」と招いています。キリストを信じるか否かは、極めて個人的な決断です。
個人の決断
「あの先生が言っているから、本当に違いない」のような考え方は、キリストへの信仰を語る場合、入る余地がありません。なぜかといえば、キリストは、私たち一人ひとりに直接語っているからです。2000年前に、人として生きたイエス・キリストは、今、天にいらして天地万物を支配しています。この方は、今も生きておられます。聖書を通して聖霊を通して、主キリストは今も神の御心を私たちに語っているのです。
もしキリストが言っていることが真実であれば、私たちは何をするべきでしょうか。すべての人間にとってキリストを信じるか否かは、人生最大の課題になります。一生かけても、価値ある課題になるのではないでしょうか。心の目を開いてキリストを見て、心の耳を開いてイエス・キリストの教えに耳を傾けてみましょう。
