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コンテンツへスキップ 投稿日:2025年8月5日/更新日:2025年10月22日

14世紀教会の権威の衰退と封建社会の崩壊

教会の権威の衰退

13世紀において政治、経済、宗教は互いに影響し合いながら、中世ヨーロッパの封建社会は、総体的に調和を保ちながら機能していました。しかし、1300年頃から社会の亀裂があちこちで見られるようになります。例えば、教会の分裂と教会の権威の衰退、貨幣制度の発達に伴う封建制の崩壊、イギリスとフランスの100年戦争、他民族の侵略など。これらの変化と共に、ヨーロッパに歴史は、次の時代ルネッサンスへ、キリスト教の観点でいえば宗教改革へと導かれていきました。

教会の分裂

1378年から1417年の間、教会分裂が起きます。ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇がたてられ、ローマ・カトリック教会が分裂したのです。

クレメンス5世教皇は、政治的に世情不安なローマを嫌い、1309年に教皇庁をローマからフランス、アヴィニョンに移しました。以降、1377年まで7代の教皇は、フランス王の監視下に置かれるようになりました。結果的に、この政治的な関係が教会分裂を引き起こしてしまうのです。

この移動によって、教皇庁はフランス王国との一層の関係を強め、その結果、教会内部での権力闘争は避けられないものとなりました。教会は政治の影響を受けることになり、その神聖さが薄れてしまったのです。この状況は、信者たちの教会への信頼を損ね、さらなる不満の原因となりました。

グレゴリウス11世教皇は、1377年に教皇庁をアヴィニョンからローマに移しましたが、翌年には亡くなり教会選挙(コンクラーヴェ)が行われイタリア人のウルバヌス6世が教皇に選出されます。ところが多数派のフランス出身の枢機卿たちは、選挙は無効だとしてウルバヌス6世の廃位とジュネーブ出身のクレメンス7世の教皇選出を宣言します。クレメンス7世は教皇としてアヴィニョンに戻り、ウルバヌス6世はローマで教皇として留まったのです。この結果、ローマ・カトリック教会は、両派に分裂することになりました。

事態収拾のために1409年にピサ教会会議が開かれ、2人の教皇(グレゴリウス12世とベネデゥクトゥス13世)の廃位とアレクサンデル5世が新しい教皇として選出されます。しかし、2人の教皇は納得せず、結局、3人の教区が乱立する事態になったのです。

アレクサンデル5世の後継者である ヨハネス23世は、1414年に神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントの圧力を受け、アレクサンデル5世の後継者であるヨハネス23世は、神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントの政治的な圧力を屈して、ドイツのコンスタンツ公会議を招集します。会期中になんとヨハネス23世はコンスタンツから逃亡してしまったのです。そのために彼は廃位とされ、この混乱のさなかグレゴリウス12世は教皇からの退位し、後にベネティクトゥス13世は廃位とされます。1417年、新たにマルティヌス5世が教皇に選出され、ようやく教会の大分裂は終息したのです。

教会の権威の衰退
14世紀教会の権威の衰退と封建社会の崩壊 6

この分裂は、教会の権威が二重化されたことを意味し、信者たちはどちらの教皇を支持するかで意見が割れることとなりました。このような状況は、教会の権威の衰退をさらに加速させたのです。聖職者たちの間での亀裂が、信者の間にも波及しました。

しかし教会の分裂は、単なる権力争いにとどまらず、信者たちの信仰にも大きな影響を与えました。分裂の結果、異なる教派が生まれ、それぞれが独自の教理や儀式を持つようになりました。これにより、信者たちは自らの信仰のあり方を再評価する機会を持つことができました。

これらの変化は、特に教会の権威の衰退に対する人々の意識を高めました。教会の権威が衰える中で、信者たちは新たな宗教的指導者や運動を求めるようになりました。特に、宗教改革の先駆者たちが登場し、彼らの教えが広まりました。これによって、個人の信仰が重視されるようになり、教会に対する批判的な視点が形成されていきました。

このような状況下で、教会の指導者たちはその権威を回復すべく様々な努力を試みましたが、教会の権威の衰退は止まることがありませんでした。実際、教会に対する信頼はますます薄れ、多くの信者が新しい信仰の形を求める動きが広がりました。

その後も教会分裂の影響は長く続くこととなり、信者たちは教会の教義や儀式に対して疑問を持つようになりました。多くの人々が聖書を読むことを求め、教会の外部から新たな信仰の形を模索するようになったのです。このような背景が、後の宗教改革へとつながっていくこととなります。

教会権威の衰退と宗教改革の先駆者たち

ヨーロッパ全体また国王をも支配していたカトリック教会は、見事に悪魔によって騙されました。教会指導者たちは、権力闘争に明け暮れ教会のモラルは奈落の底に落ちるがごとく腐敗していきました。神の支配下にあるべき教会が、まさに人間の支配下に成り下がってしまったのです。言うまでもなく、教会のこれらの権力闘争と世俗化を見た人たちは、教会に失望しました。

この時期に現れた批判者たちは、教会の腐敗や権力闘争を鋭く批判しただけでなく、その影響を受けた信者たちが自らの信仰を見つめ直すきっかけにもなりました。教会の権威の衰退は、信者たちにとっての新たな宗教的探求の始まりといえるでしょう。この時期に、教会を公に批判した著名な人たちを次に挙げてみます。

ジョン・ウィクリフ(1329-1384年)

オックスフォード大学の神学教授であったウィクリフは、教会の堕落した慣行に対して戦いを挑みました。

この当時、教会の聖職者たちには、神と信仰者たちの仲介的役割、すなわち超自然的な権威が与えられていると考えられていましたが、ウィクリフはこれらの教理を全面否定したのです。キリストの福音だけが恵みの源泉であり、聖書だけが真理であると説いたのです。カトリック教会の聖餐式におけるパンとぶどう酒が聖変化するという教理も、ウィクリフは否定したのです。むしろ、キリストは霊的に聖餐式の場に臨在していていると説いたのです。実際、ウィクリフのこれらの主張は、16世紀の宗教改革の主張と似通っているのにお気づきでしょうか。

しかし、当初ウィクリフを支えていた地位の高い友人たちは、徐々にウィクリフを見捨てていきました。最終的には、彼はオックスフォード大学の教授の職もはく奪され、町からも教会の権威によって追い出されてしまったのです。後に1384年に重い病いにかかり地方の町で天に召されました。

彼は、教会の腐敗した慣行に対して挑戦することで、信者たちに真の信仰と神との関係を取り戻すことを訴えました。ウィクリフの活動は、教会の権威の衰退を象徴するものとして、多くの人々に影響を与えました。

教会の権威の衰退

ウィクリフの教えは、特に聖書の翻訳において重要な役割を果たしました。彼はラテン語聖書を英語に英語に翻訳をして、民衆の手に聖書が渡るようにしたのです。彼の著作を通じて、信者たちは自らの力で聖書を読むことができるようになり、教会の教えを再評価する動機となりました。聖書が一般の人々にとって身近な存在となったのです。これにより、信者たちは教会の教義を自らの言葉で理解し、教会に対する批判的な視点を持つことができるようになったのです。

このように彼の活動は、後に起きるルターの宗教改革を引き起こす大きな要因の一つとなったのです。

ヤン・フス(1374-1415年)

プラハ大学の神学教授であったフスは、チェコの国家主義と教会の改革をもたらした殉教者として名声を得ました。

ウィクリフの影響を受けたヤン・フスもまた、信者たちの純粋な信仰を重んじる姿勢を貫きました。また教会での聖書の権威と御言葉による説教を強調しました。

彼の殉教は、教会の権威の衰退に対する強いメッセージとなりました。

一方で、フスはローマ・カトリックを次のような点で鋭く批判したのです。聖職者に与えられていた特権と権威、罪の贖いのための免罪符を販売している事、主の晩餐において一般信者が除外されている事など、すべて非聖書的であるとを糾弾したのです。1415年にコンスタンス教会会議において、彼はその信仰ゆえに異端として排斥され殉教しました。

教会の権威の衰退

フスの活動は、彼の殉教を通じて多くの信者に影響を与え、彼の信仰のもとに結集する動きが広がりました。このことは、教会の権威に対する挑戦となり、さらなる改革の動きへとつながっていくのです。

ピエール・ヴァルド

フランス人の商人であったピエール・ヴァルドは、1175年にイエス・キリストによる新生を経験したと伝えられています。私財を貧民に施して人々に悔い改めを説き、聖書に基づく信仰を主張して、中世の教会制度を批判しました。後に、彼に従う人たちがヴァルド派と呼ばれるようになりました。

彼は教会の権威に対する批判を行い、信者たちに教会の教えに疑問を持つよう促しました。彼の活動は、教会の権威の衰退を促す要因となり、信者たちが自らの信仰を見つめ直す契機を提供しました。

彼の活動は、教会制度に対する批判だけでなく、信者たちが自らの信仰を再評価するきっかけともなりました。ヴァルドの影響は、後の宗教改革にも多大な影響を与えたといえるでしょう。

この記事で紹介した人たちの活動は、マルティン・ルターの宗教改革(1517年、95か条の論題)の陰に隠れてルターほど教会史では注目を浴びませんが、宗教改革の先駆者としてもっと認知されるべきだと思います。

教会の権威の衰退

封建制、荘園制の崩壊

封建制、荘園制の崩壊には、貨幣経済の発達が大きくかかわっています。13世紀に入り経済の構造が、現物経済から貨幣経済へと変わっていきました。貨幣経済の発達と共に、銀行が経済の中枢を担うようになりました。農奴たちは、わずかながら貯蓄をすることができたのです。農奴の中には、多額の解放金を支払うことによって身分的に自由になる者もいました。

またこの時期には、戦争とペストの流行で人口が激減しました。領主たちは、農民を確保するために農民の自由また土地の保有権を農民に与えるように迫られました。徐々に農奴がいなくなり封建制、荘園制が中世ヨーロッパから消えていったのです。

このようにヨーロッパ全体が、封建制の崩壊とともに人間の尊厳と自由を尊重するようになり、ルネッサンスの文化革命につながっていたと思われます。また封建制の崩壊は、キリスト教にも多くの影響を与え宗教改革の先駆者たちの心に霊的な炎を燃やしたのでしょう。

イギリスとフランスの100年戦争(1337-1453年)

フランス王国の王位継承をめぐって、ヴァロア朝フランス王国とプランタジネット朝イギリス王国の戦い。プランタジネット朝のエドワード3世は、フランス王フィリップ6世に対して自分のフランス王位を主張してフランスに宣戦布告しました。100年戦争は、この宣戦布告1337年11月1日から1453年10月19日にボルドーが陥落したの116年の対立状態を指します。100年戦争という名称ですが、終始戦闘状態であった訳ではありません。

エドワード3世の宣戦布告の後、イギリスがフランスを占領しましたが、徐々にフランスが盛り返します。フランスが劣勢の時に英雄的に登場したのが、フランス人少女ジャンヌ・ダルクでした。彼女の犠牲的な奮闘的な働きによって、イギリス軍を撃破したのです。シャルル7世が王位につくきっかけをつくり、この後、フランス軍は官僚制と常備軍の整備が進み、中央集権の王権絶対政権が誕生することになりました。またこの戦争の結果、現在のフランスとイギリスの国境線が明確にされるようになりました。

教会の権威の衰退のまとめ

これらの動きは、教会の権威の衰退と共に、信者たちが新たな信仰の形を模索する過程で不可欠なものでした。教会に対する信頼が揺らぐ中で、信者たちは自らの信仰について深く考えるようになり、これが宗教改革へとつながっていくのです。

封建制度の崩壊は、経済状況の変化とともに、信者たちの宗教的意識を変える要因にもなりました。経済的な自由が広がる中で、人々は自らの信仰について考える余裕を持つようになり、教会の権威が衰退する中で新たな信仰の形を模索するようになったのです。

このように、封建制度の崩壊とともに、経済や社会の変化が教会の権威に影響を与え、その結果、信者たちは新たな宗教的探求へと向かうようになりました。教会の権威の衰退は、ルネッサンスや宗教改革といった歴史的な流れの中で重要な役割を果たしたのです。

教会の権威の衰退は、個人の自由な信仰の重要性を再認識させるものであり、信者たちが自らの信仰を持つための大きな転換点となったのです。こうした歴史的背景を理解することで、私たちは現代における信仰の意味についても深く考えることができるでしょう。

教会史

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