コンテンツへスキップ 投稿日:2025年3月24日/更新日:2025年3月24日

ローマ人の手紙3章21節-新しい契約と十字架の関係

キリストの十字架

ローマの手紙3章21-26節から、新しい契約と十字架の関係を解説します。主キリストから目を離しては、キリスト者として生きていけません。

神様がイスラエルの民と結んだ契約

天の神様は、数ある民族の中からイスラエルの民を選びました。古代の時代、神様はイスラエルの人たちだけと契約を結びました。この契約下で、イスラエルの人々は神様の契約の律法が与えられました。律法は契約の要です。律法とは日々の生活をどう生きるのかが決められた約束事、決め事です。

この律法には、ある特殊な規則がありました。それは、人が悪いことを行った場合、つまり神様の対して罪を犯した場合には、その代償としていけにえを捧げなさいと命令されていたことです。イスラエルの人々は、罪を犯すたびに羊をいけにえとしてささげたのです。

旧い契約から新しい契約へ

しかし、神様のイスラエルとの契約は、霊性において欠けているところがありました。イスラエルの礼拝も律法も、すべて目に見える物質的なものだったのです。神様は、この不完全な契約を無効とされたのです。イスラエルの契約は旧い契約となったのです。この旧い契約に終わりが来たのです。天の神様は、すべての民族と契約を結ぶ新しい契約をイエス・キリストによって成就しました。

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。ローマ3章21-26節 聖書協会

その律法と預言者によって立証された神様の義が示されたと、この聖句は言っています。神様の義とは何でしょうか。それは、主イエス・キリストを信じることにより、すべての人間が神様の子供として受け入れられるという約束です。主イエス様への信仰によって、私たち人間は神様の恵みを受けるという約束です。パウロは、イスラエルだけでなく、人間なら誰でも神様の憐れみと恵みを受けることができる新しい契約について説明しているのです。

なぜ新しい契約が必要だったのか

すべての人間が抱えている問題とは何でしょうか。それはこの世の悪です。私たち人間が造り出しているこの世の罪悪です。聖書は、この世の悪は人間の罪によって作り出されていると言っています。

悪魔の力を象徴する罪によって、この世界は支配されています。罪ゆえに、人間は傷つけ合い、殺し合い、騙し合い、罵り合うのです。言うまでもなく、戦争やいつの時代でもあり、犯罪は毎日起きています。罪ゆえに、人間は自分を傷つけるような行いをします。自分の心を汚します。そして、自らを苦しめているのです。

主イエス様は、このような状態を罪の奴隷と言っています。奴隷には自由がありません。やりたいことができません。逆にやりたくないことをしてしまいます。正しいことを知っていても、その正しいことができません。自分にとっても、他の人にとっても良いことだとわかっていても、それが出来ないのが人間です。罪の奴隷の人間の性です。

しかし、神様は私たち人間に新しいチャンスを与えています。神様自身が、イエス・キリストを通して私たちの人生に介入して、罪の奴隷状態から解放してくださるのです。心の重荷を取り去ってくださいます。しかし、私たちはこの方を信じる必要があります。

新しい契約と十字架の関係

新しい契約の要はキリストの十字架

天の神様は、罪の狭間で生きる人間の苦しみと悲しみを見て悲しんでおられます。本来、人は自分の罪のために死ぬべきでしたが、憐み深い神様はその裁きを下しませんでした。その代わりに、神様はイスラエルの人々にその罪の代償として、いけにえをささげさせたのです。イスラエルの人々は、罪を犯すたびにそのいけにえがささげました。

しかし新しい契約では、イエス・キリスト自身が自ら十字架にかけられ、私たちの罪のいけにえとして命をささげました。少しわかりずらい表現が含まれていますが、次の聖句を注意深く読んでみましょう。

なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。へブル人への手紙9章24-28節 聖書協会

イスラエルの人々が罪を犯すたびにいけにえをささげたのに対して、イエス・キリストはたった一度だけ全人類のために、いけにえとして死なれました。人間の手で作られた神殿ではなくて、天にてご自分をささげたのです。このイエス・キリストの贖いのわざによって、主イエス様を信じる人は、罪が赦されているのです。この方は、いつの日か2度目に現れます。再臨の時です。その時、信じている人も信じていない人もすべての人間が、主イエス・キリストにひれ伏すことになります。

他の誰でもありません。ただイエス・キリストだけを信頼して生きていくことこそ、人間が生きる道です。主イエス・キリストは、ヨハネ14章で次のように言っています。

心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。…わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。ヨハネ14章1節、6節 聖書協会

日本語翻訳ではわかり難いですが、「わたしが道であり、真理であり、命である」の本来の意味、聖書が書かれているギリシャ語の本来の意味は、唯一の道であり、唯一の真理であり、唯一の命という意味です。つまり、主イエス・キリスト以外に、神様との関係をもつことはできないという意味です。

クリスチャンになって、主イエス・キリストから目を離していたら、どんなクリスチャンになるでしょうか。キリストに目を向けずに教会の礼拝に出席していたらどうでしょうか。教会の建物がきれいとか、圧倒的な迫力があるとかという理由で、礼拝に出席していたら本当の礼拝と言えるでしょうか。また主イエス・キリストから目を離して、牧師に目が行っていたら、本当のキリスト者と言えるでしょうか。牧師の話がうまい、牧師がカッコイイとかという理由で、教会を選んでいたら、本当の礼拝になりません。教会に行っているというだけで、主イエス・キリストの名によって、神様を礼拝しているとは言えません。

すべての人が招かれている

天の神様は、なぜ他の民族を除外してイスラエルの民族を選んだのでしょうか。その理由は、イエス・キリストにあります。すべての人間に救いのチャンスを与えるために、イスラエルを神様は選びました。イスラエルのユダヤ人として、神様の一人子、主イエス・キリストは生まれました。この方が、人類の救い主です。私たち人間に生き方を教えて下さる方です。

この方を信じる人は、誰でも神様の救いの恵み、祝福に与ることができます。例外なくすべての人にそのチャンスがあるのです。この世の終わりが来る時まで、主イエス・キリストは、すべての人間を招いています。すべての人間の歴史と時代を超えて、すべての文化を超えて、主イエス・キリストは、すべての人間に手を指して宣べています。

主イエス様の招きに応えて主イエス様について行きましょう。読者の皆様の上に、主イエス様の尊い祝福が宿りますように、心よりお祈り申し上げます。