祈りの神髄と秘訣。イエスの弟子訓練の中で、旅する者が夜中友人宅にパンを借りに行く話をします。家の主人は面倒と思うが、願いの強さから友の願いを聞きます。この事例から、求めよ、捜せ、門を叩くよう促します。地上の父は子によいものを与えようとします。ましてや、天の父は求める人たちに必要で最上のものを与えてくださると言います。
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」ルカの福音書11章5-13節 聖書協会

求め続ける
ゴルゴタの丘に向かうイエスの弟子訓練で直接語り掛ける機会が多くなります。そのなか、弟子たちを一つの場面に巻き込みます。物語は友人同士の関わりです。片方は旅の途中、真夜中に友の家を訪れ、パン三つを貸してくれと願います。体力も限界であったでしょう。恥も外聞もなく、真夜中友の門をたたきます。友に手を差し伸べるのが普通です。家にあがりなさいと招くでしょう。心配しないで今晩安は旅の疲れをとるように私たちは友です。
ところが、主人は友の願いに、出してやるものが何もないと言い、そのうえ、「彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締りもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることは出来ない。』」予想に反し、冷酷にも願いを拒みます。主人は家の中から、扉の向こうに立つ友に顔を合わせず、話します。ここでは友と言っていますが、随分そっけなく、かつ冷たい対応と言わざるを得ません。
扉越しに言います。「めんどうをかけないでくれ。」外に立つ友にはショックです。めんどうをみるのが普通ではないでしょうか。仮に、面倒くさいと感じても、友の必要に応えないでしょうか。三つのパンを貸してください、ということです。パンをください、めぐんでください、と言っていません。返す目途があるから、友よ、今夜だけでも、貸してくださいと言っています。
戸締りもしたし、子どもたちも私も寝てしまったのです。めんどうをかけないでくれ。家族は寝ています。扉の外の友はどのような気持ちだったでしょうか。迷惑かけて申し訳ないと思っていたかもしれません。しかし、今晩空腹で過ごすのは辛い、そのまま旅に向かうのはもう限界です。だから、真夜中でも友のところに来て、門を叩きパンを借りに来ているのです。

必要なものが与えられる
外の友に、主人は伝えます。恥を忍んで、夜中に扉を叩く者がいます。友のありえない態度を物語り、それでも執拗に求める意味を強調していると思われます。家の友は、しつこく求められれば、必要なものを与えるでしょう、とイエスは言われます。最初の部分では、与えるものがなくても、とことわり、後半では、必要なものを与えるでしょう、と言うのです。
必要なものです。それも、求め続けるならば、といわれます。必要と、求め続ける、があいまってあらわすのは、なくてならないものを求めて、ということだと思います。それなしでは旅立てず、生きられないということです。この求めは、真夜中であろうが、友の家であろうが、どのような状況下でも求めなくてはならないことです。空腹だけの求めではないでしょう。
パンであればどの家にあり、店頭に並べられています。パンだけの求めであれば、友の家に真夜中たずねることもないように思います。イエスが取り上げたのは、パンとはいわず、必要なものを与えるでしょう、です。パンは象徴的なものとして上げられかもしれません。旅人の場面を受けて、イエスは語ります。
「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」
求めの三様態
わたしは、あなたがたに言います、パンを求めなさい、ではありません。求めなさい、そうすれば与えられます、で終わりません。続け、捜しなさい、そうすれば見つかります。ここでも終わりません。今度は、たたきなさい。そうすれば開かれます、と語ります。求め、捜し、たたきなさい、と求めを促します。いずれの行為も持続しなさいとの意志が含まれています。
ありとあらゆる手立てで求めるよう促します。求めるにふさわしいことが控えているからです。求めなくてならない私たちです。獲得するのではありません、与えられるのです。あなたがたに言います、とお語りになるイエスが主役です。求めなさい、必ず応じます。万全の備えを、求めの三様を促すことで明らかにしたでしょう。
「だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」
だれでも、です。求める側に条件がありません。ユダヤ人、サマリヤ人、ギリシャ人、異邦人、パリサイ人、サドカイ人、取税人、罪深い女、強盗、裏切り者、弟子たち、だれでも求めなさいです。求めるものが誰にもあるということです。だれでも、の呼びかけを聞く者に慰めです。また、求めの三様態に対応し応答されます。欠けなく応えられるのです。
求めにこたえるお方
そして、日常を取り上げます。悪者でも自分の子どもには、求めにふさわしい良いものを与えるでしょう、語ります。悪者の行為をイエスは見ていたのでしょう。悪をはたらく者でも、子どもには親心から子が喜びそうなものを与えるのを見たでしょう。子の願いに叶うよう、万難を排し求めに応じる姿を見ています。強盗の親でも、近所の親も、子の求めに応えようとします。
弟子たちに言います。「してみると、あなたがたも、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」地上の父は、天の父、神を垣間見せます。しかし、悪い者と言わなければならない父もいます。真の父親像は、天の父により定められます。
「なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」非情な友さえ執拗な求めに応え、悪い者でも子には良い物を与えます。なおのこと、独り子を惜しまず私たちのため与えてくださる天の父です。測り知れない賜物を与えます。天の父なる神が御霊を与えます。御霊の神が私たちに住まわれるのです。「だれであっても」求めるなら、この賜物から漏れることはありません。
