都エルサレムの外で十字架にあげられるため、イエスは御顔を都に向け進みます。途上弟子たちの内輪もめが起こり、サマリヤでは通ることを拒否されます。それでも、父なる神のみこころを辿るイエスです。私たちの罪と罰を引き受け、十字架の道、受難の都への歩みを止めることはありません。私たちのため、我が主イエスです。
エルサレム途上での内輪もめ
イエスは裏切られ、罪人の手で渡されます。十字架にあげられたのは、私たちを愛するゆえにです。受難の予告を聞いた弟子たちが、誰が一番偉いかもめます。神の愛がイエスにより宣言されているのにもめます。主の愛に包まれているのに仕様がないとのんきなことは言っていられない気もします。
イエスの愛を見聞し、愛を説きながら内輪もめです。主の群れで誰が偉いか、力があるかの議論です。受難を聞きながら、どうして内輪もめなど他人ごとと言えません。弟子たちだけでありません。罪人である私たちの言動を悔い改め、イエスのみことばを聞きたい。
内輪もめにイエスが直接ことばを投げかけません。彼らの過ちを咎めてもよさそうです。そうはなさりません。ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせます。弟子の間で燃え上がる自意識過剰に、イエスは拍子抜けの手段で彼らに問います。ひとりの子どもに目を転じさせ、彼らが目覚めなければならない真理を明らかにします。
彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」
保護者のもとで生活する子を受け入れる者がイエスを受け入れる者であると示されます。一番弟子が誰かと内輪もめする弟子たちの考えを砕き、真の弟子のこころを示します。自己吟味させ、悔い改めを迫ります。世間で大人の間に身を置く場がないこども一人を彼らの間に立たせます。こどもは恐れ、緊張したでしょう。イエスの手につながれていれば大丈夫です。
こどもを受け入れるこころが問われます。何も出来ない、してこなかった、、連れ出され立つこどもです。それをイエスの名のゆえに受け入れる者がイエスを受け入れます。イエスの名のゆえに、とはイエスの権威です。イエスの眼差しで、ともいえます。何か行った偉さではなく、存在の尊さに目を向けさせます。幼子を受け入れるか否かは、自分の目ではありません。イエスの目です。彼らの視点がズレていました。彼らの目は狂っていたのです。
主を外に置く、罪の視点でした。誰が一番偉いか、とか誰が一番弟子である考えが罪深いことです。イエスを囲み起こった罪です。キリストのからだである教会に同様な言動が起こっても不思議ではありません。決して忘れてならないのは、イエスの名のゆえに互いに受け入れる姿勢です。
味方はだれか
区別、差別の視点を戒められた弟子たちです。その矢先、ヨハネは自分たちの側か外の者たちか線引きを露わにします。幼子を立たせ、イエスの名で受け入れることを聞いたにもかかわらず、自分を軸に区別をします。自分たちといっしょ、自分たちの許可がなければ、たとえイエスのみこころに適っても駄目です。自分たちの目が届く範囲、気に入る者でなければ拒否します。
誰が一番偉いか、と線引きしたくなります。イエスの答えは簡潔明瞭です。「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」自分を主張し線引きや排除することもないのです。反対しないなら、弟子たちの味方です。イエスの名で働く人々は弟子たちの味方です。
十字架の道
「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられた。」
さて、で新たな展開となります。天にあげられる日、十字架のとき、受難のときです。死骸は不浄なものとして都の外に葬られます。悲惨な姿で、地上の生涯の終わりを城壁の外で遂げる日に向かうイエスです。恥さらしとなり、呪われた木にあげられ晒されるときが迫ります。父なる神のみこころでは栄光の日に向かうときです。世界に救いをもたらす日です。

悲惨な幕切れと見えても、御父のご計画です。その道をイエスは御顔をまっすぐに向け進みます。道に壁がたちはだかります。サマリヤの町はイエスを受け入れません。人種的、社会的、宗教上の軋轢があります。ユダヤ人イエスをサマリヤ人は拒否します。イエスはこの民のためにも受難の道を進みます。弟子たちは憤ります。怒りをもって、イエスに進言します、
「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』」
イエスは彼らのことばに乗りません。「イエスは振り向いて、彼らを戒められた。」イエスを拒否する者のためにも行かれる十字架への道です。主の道を辿ると聞く十字架上からの祈りです。私たちのこころの耳には確かに主の御声が聞こえています。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らにはサマリヤ人も含みます。弟子たちの怒りを戒めたイエスのメッセージです。
弟子たちがわかっていたのかは疑問です。十字架の直前に、彼らが恐怖のあまり散ったことから想像して、戒めのわけをわかったとは思えません。十字架のイエスに耐えかね散った時点では、やがて起こる十字架の栄光を予見することはなかったのです。戒めの意味が定かではありませんでした。それでもイエスに従い別の村に行きます。
イエスは「天に上げられる」、道を弟子たちと進みます。父なる神のみこころを孤独なまま進みます。内輪もめを見、サマリヤ人の拒否に会い。弟子たちを戒め、行く手が阻まれると、別の道を通り、追いやられるように異なった村に足を進めます。みこころの成る歩みを進みます。弟子たち、サマリヤ人たち、通り抜ける村人のため、私たちのため十字架の道を行きます。受難の都に歩みを進めます。私たちのため進む、我が主イエスです。