コンテンツへスキップ 投稿日:2026年1月3日/更新日:2026年1月9日
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教会とは何か-ある神学生が描く理想の教会像

教会とは何か

本レポートでは、「教会論」で学んだことをもとに、「教会とは何か」というテーマについて、講義テキストをもとに、教会の起源、神の計画、教会の役割、組織としての礼拝、教会の成長など観点から論ずる。また、エペソ人への手紙4章1~16節をもとに、私自身が考える理想の教会像について述べていきたい。

旧い契約と新しい契約の関係

 まず、古い契約と新しい契約、旧約聖書と新約聖書の関係について見ていきたい。

創世記12章1節において、父なる神様はアブラハムに対して1つの命令を下している。それは、「あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、私が示す地へ行きなさい」という命令である。約束の地とは、カナンとされている。現在のパレスチナである。

続く2,3節では、父なる神様からアブラハムへの約束が示されている。その約束とは、父なる神様がアブラハムを大いなる国民とし、また、アブラハムを祝福し、そして、アブラハムを大いなるものとするということである(2節)。また、アブラハムによって「地のすべての部族」が祝福されることも約束されている。アブラハムは、父なる神様の命令に従い、カナンへと旅立ったのである。

異邦人の救い

ここで、ガラテヤ人への手紙3章を参照したい。8節にはこのような記述がある。「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。」(聖書協会)

ここで注目したい点が2つある。1つは、異邦人の救いについての言及である。創世記12章3節の「地の全ての部族」の中には、イスラエル民族のみならず、異邦人も含まれているのである

もう1つは、異邦人にも救いがもたらされるという約束が、主なる神様の当初からのご計画であった、という点である。創世記に異邦人への救いについて言及されているというのは、驚くべきことである。父なる神様の御心の深さがうかがえる。この2点は、教会の起源をたどる上で重要なポイントであると言えよう。

神がアブラハムに与えた約束

 さらに、16節にはこのように記されている。「ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです」。(聖書協会)。この個所から、アブラハムへの約束、祝福の成就として、主イエス様がお生まれになることが読み取れる。

新聖書注解を見ると、次のようにある。「しかし、真の意味でアブラハムに約束された祝福を相続し、その約束を実現する〈子孫〉は、キリストの他にない」(新聖書注解 新約2 P467上段より引用)。主イエス様が、アブラハムへの約束の成就であると解釈して相違ないことが読み取れる。

教会とは何か

旧約聖書と新約聖書の関係

 アブラハムと主イエス様が繋がっているように、旧約聖書と新約聖書にもつながりがある。旧約聖書と新約聖書には、継続性と非継続性がある。

継続性

継続性として挙げられることは、神の救いのご計画についてである。神の救いが当初から異邦人も対象とされていたことから、神の救いのご計画は、旧約聖書から新約聖書まで貫かれていると言えよう。

非継続性

 他方、非継続的な側面もある。契約という観点から律法を見るとき、新約聖書において主イエス様が律法を完全に成就されたと言える。バイブルナビの解説によると、「キリストは、地上での神の御心を完全に体現することで、律法の目的と目標を達成され」た。「キリストは、律法の終結」であったのである(バイブルナビp1854下段より引用)。律法の成就という点は、旧約聖書と新約聖書では非継続的と言えよう。

なぜ、イスラエルの民に律法が与えられたのであろうか。それは、民を束縛するためではない。「あの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために」である(聖書協会 ガラテヤ3:19)。子孫とは、キリストである主イエス様である。主イエス様が来られて律法を成就されたがゆえに、キリスト者は、もはや律法には縛られていない。キリスト者にとっての律法は、主イエス様なのである。

キリストによる律法の成就

ただし、主イエス様による律法の成就という出来事は、旧約聖書がもはや不要になったという結論には帰結しない。講義によると、「新約聖書は、旧約聖書からの教えを神学的に引き継いでいる」のである(講義ノートP4より引用)。

1世紀の教会においては、旧約聖書が使用されていた。新約聖書がまとめられる前の時代だったことから、当然と言えば当然である。しかし、当時のキリスト者たちは、旧約聖書を用いて、キリストの死と復活、そして再臨を信じ、父なる神様を礼拝していた。彼らは、旧約聖書に示されている新しい契約の預言と成就、すなわち主イエス様を信じ、礼拝していたのである。このことからも、旧約聖書が不要になった訳ではないことが読み取れる。1世紀に行われていた礼拝は、現在の私たちの礼拝の原点と言っても過言ではないだろう。

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