コンテンツへスキップ 投稿日:2022年5月17日/更新日:2025年2月6日

神に選ばれる基準を探る

海に向かって両手を上げる男性

エペソ1章3-14節の構成を最初に読んでください。神はクリスチャンを主イエス・キリストを通して選び、聖く、傷のない者にしようとされました。特別善い人が選ばれたのでしょうか。神に選ばれる基準を探る・・・神の救いの計画における神の選びについて考えます。

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。エペソ1章3-10節 聖書協会

キリストを通して、神はクリスチャンを選ばれた

エペソ人への手紙1章3節-14節

4節を直訳すると「神は世界の創造以前から、その愛によって私たちを聖なる汚れのない者にしようと、キリストにあってお選びになった」となります。この聖句は、クリスチャンがキリストにあって選ばれたこを明らかにしています。この「選びの神学」は聖書全体に教えられており、否定することは出来ません。では、1章4節をどのように解釈すべきでしょうか。鍵になる言葉は「キリストにあって」でです。このキーワードはエペソの手紙に35回出てきます。まずは旧約聖書から「選びの神学」を考えてみましょう。

旧約聖書全体から考える選びの神学

アブラハムは、イスラエルの父として選ばれました(創世記12・1―3)。この時にすでにイエス・キリストの福音は、アブラハムに預言として伝えられていたと、ガラテヤ書には書かれています(ガラテヤ3・6―8)。アブラハムの子孫であるイスラエルは、神の民として選ばれましたが(出エジプト19・5―6)、彼らが特別、善人であったからとか、人数が多かったからといった理由で選ばれたのではありません(申命記7・6―7、9・4―5)。むしろその逆で、彼らはごく小さな部族に過ぎませんでした。

一般的な選民意識の意味(エリート)熟慮してみましょう。選民意識の意味(エリート)・選民意識が強いのはどんな人/どんなとき 聖書が示す神の選びとはまったく違った認識です。

アブラハムもイスラエルも、主イエス・キリストによる救いの計画が成就するための神の器です。イスラエルは国々の光となるために選ばれ、(イザヤ42・6)究極的にはイエス・キリストが世の光としてこの世に来られたのです。また、ユダ族のダビデは、イエス・キリストの支配の雛形として王として選ばれました。このように旧約聖書の時代において、神は、一人子イエス・キリストをこの世に遣わすために、アブラハム、イスラエル、ダビデといった人々を選んだのです。

新約聖書全体から考える選びの神学

では新約聖書では、「神の選び」はあるのでしょうか。主イエスは十二人の弟子たちを選び、使徒と名づけ神の権威を与えました(マタイ10・1―4、ヨハネ15・16)。12人の弟子たちが、イエス・キリストを選んだのではありません。神の御心によって、主イエスご自身が十二人を任命したのです。

さらに主イエスは、それらの十二人の使徒たちに、「宣教」という特別な責務を与えました(ヨハネ15・26)。使徒たちは、裁きの日においても、イスラエルの十二の部族を裁くという特別な責任が与えられています(ルカ22・28―30)。

このように神の選びとは、ある特殊な目的のためになされているのです。このような選民感情は、カルト・グループによって悪用されますが、あってはならないことです。現代でも「使徒ミニストリー」といった名称で、現代の「使徒」であると主張して宣教をしている人たちがいますが、私は間違いだと思います。「使徒」は、主イエス・キリストの宣教の業を証人として見たものであり、主イエスによって選ばれた人である(使徒1・22)と、聖書は明らかにしています。一般クリスチャンの選びと12人の使徒たちの選びを同列にするべきではないと、私は考えています。

クリスチャンがキリストにあって選ばれた意味

ではクリスチャンが選ばれたとは、どのような意味があるのでしょうか。鍵になる言葉は、「キリストにあって」です。天地万物の創造以前からイエス・キリストの救いの計画が、神の御心にはありました。主イエス・キリストを信じる者を「キリストにあって」聖なる者、汚れのない者として、神はお選びになったのです。

クリスチャンは、救いの恵みに応えつつ、自ら聖なる生活を心がけ、罪から離れて汚れのない者として生きるように勧められています。アブラハム、ダビデ、ペテロ、パウロが神によって遣わされた時、彼らは信仰によってへりくだった道を選びました。現代に生きるクリスチャンも、同様に神が導く道を歩むべきでしょう。

ここで疑問が湧いてきます。「選びの神学」は、個々の人間の救いに適用されるべきでしょうか。ある人は救われるために選ばれ、ある人は滅びるために選ばれたのでしょうか。神は、神の器としてある特定の人物を選ぶことはありますが、救いに関してはすべての人が招かれているのです。ここは誤解してはいけない箇所です。

神は、人が信仰を持つ以前から、人々に裁きの烙印や救いの刻印を押すようなことはありません。神にえこひいきはないのでないのです(ローマ2・11)。むしろ、神は、すべての人間が悔い改め救われるのを望んでおられます(2ペテロ3・9、1テモテ2・4)。

結論

主イエス・キリストを通して、父なる神はクリスチャンを選びました。この祝福は、言葉では言い尽くせないものです。パウロは、言葉では言い尽くせない「神の恵み」を非常にわかりやすく説明しています。この記事が、読者の皆様の聖書の理解に役立つことを祈りつつ、次の記事を書いていきます。

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「神に選ばれる基準を探る」への1件のフィードバック

  1. アーメン。主の御名を賛美します。主イエスを通し、御言葉を通し、全ての世界と私達の内に働いておられ御力に心から感謝します。主からの召しにふさわしく歩めますように。今日も御手にすがります。

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