宗教2世の弊害を、クリスチャンの家庭での子供の自由と権利という観点から考えます。純粋に主イエス様の教えに従えば、子供が無理やりキリスト教に入信させられたなどの事例はあるはずがありません。なぜなら、たとえ親であっても、自分の子供を強制的に信じさせるなどありえないからです。クリスチャンの親の責任は何でしょうか。また子供の自由はどこにあるのでしょうか。
宗教2世の問題
宗教2世の方々が、親の宗教を押し付けられたという証言を聞くと、多くの人がキリスト教に対しても偏見を持つのではないかと複雑な気持ちになります。それがキリスト教関係の話だと聞けば、悲しくなって空しくなり脱力感に襲われます。たとえ、その証言がカルト的なキリスト教のグループの人から出ていても、悲しい事実には変わりはありません。
そもそも宗教2世の問題の根源は、どこにあるのでしょうか。子供の自由と責任を否定するような親の態度が原因となって、このような歪んだ宗教観とキリスト教観を生み出しているように思えます。また勝手な解釈によって、主イエス・キリストの教えが曲げられて教えられている事にも、私は深い憂慮を覚えます。特にこの記事では、キリスト教関係の宗教2世の方々に苦しみに焦点を当てて、クリスチャンの親の責任について考えてみます。

子供の自由と権利
子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。エペソ6章1-4節 聖書協会
「父と母を敬いなさい」は、旧約聖書の律法である十戒の一部です。パウロは意識的に子供に対する戒めを与え、次に父親に戒めを与えています。当時の文化からすれば、これはごく自然な流れです。子供が父・母を敬うのは、神様が定めた原則です。レビ記19章3節には、父母を恐れなさいとも教えられています。この原則は、子供が成人になって独立しても老人になっても変わりません。親子関係は年に関係なく続くからです。同時に、キリスト者はこの親子関係が「キリストを恐れ尊ぶ」大原則に基づいていることを忘れてはならないと思います。
子供が神様を知らない、信じていない時は、当然、子供は親に従うべきです。子供は親の教えに従い成長していきます。その成長過程で子供は、父なる神様を信じ主イエス様を信じ、クリスチャンになった場合は、順序が逆転します。子供は、まず主イエス様を信頼し教えに従い生きます。主イエス様を信じる故に、親にも従うのです。親との良好な関係をもつことは、キリスト者としてのミッションでもあります。
健全なクリスチャンは、たとえ親が主イエス様を信じていなくても、自分の良心を敬い主イエス様の愛をもって接するでしょう。このような健全な親子関係は、常に神様に喜ばれるのです。

親の責任
子供は親に従うように戒められていますが、親の責任はどうでしょうか。旧約聖書の申命記には次のように書かれています。
今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。申命記6章6-7節 聖書協会
人間関係は、主を畏れ敬い互いに仕える原則に基づいています。確かに、クリスチャンである両親は、自分の子供を聖書的に育てるミッションがあります。具体的に神様について、主イエス様について教えるのです。
しかし、クリスチャンの親であっても、強制的な権威はまったくありません。親は子供を問答無用に命令する権利は与えられていません。神様の御心に適った親は、子供の自由と権利を尊重します。主なる神様が、人間の自由と権利を尊重しているように、親も子供に対して忍耐をもって接するのです。自分の子供を自分を愛するように愛すことが求められます。
主イエス様は、私たちを愛をもって受け入れてくださり、罪さえも赦してくださっています。私たちが罪につまずき失敗の連続を犯している時でさえ、主イエス様は待っているのです。強制的に無理やり、悔い改めさせることなどありえません。親も子供に対して、同じように愛と忍耐をもって接するのです。子供の自由意志と権威を尊重できない親は、主イエス様を信じているといっても偽善者に過ぎなくなってしまいます。
父親の越権行為に対する警告
父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。エペソ6章1-4節 聖書協会
親の権威が昨今失われつつありますが、1世紀のギリシャ・ローマ社会では親の権威は大きかったのです。特に父親の権威は、一家の長として絶大でした。そのような異邦人が、クリスチャンになったのです。絶対的な権力をもつ人は、下にいる人たちに対して圧力的になってしまいやすいでしょう。父親にて例外ではありません。
上記の聖句では、パウロはこのような異邦人たちの慣習が念頭にあったのでしょう。ゆえに、子供をむやみに叱ったり怒ったりしないように、父親に警告を与えています。父親が良かれと思ってやったことでも、威圧的な態度をもつ父親は子供を委縮させてしまうでしょう。実際、悪魔を喜ばしているのです。
むしろ、主にあって子供を育てる必要があります。父親は主イエス・キリストが自分自身に対して憐れみ深いように、子供を訓練するべきなのです。やはり、父親も主を畏れる心をもって子供に接することが求められています。

結論
宗教二世の問題に関連して、クリスチャンの親子関係について考えてみました。クリスチャンの親子関係も、中枢にあるのは主イエス・キリストです。宗教2世の問題は、親が主イエス様の名によって子供を育てていても、御心に反して子供の自由意志と権利を無視した結果生まれてきました。非常に悲しい事例です。
クリスチャンの人間関係には、必ず主イエス様が中心にいらっしゃいます。親子関係も例外ではありません。クリスチャンの両親は、子供をクリスチャンとして育てようと思えば、なおさら子供たちの自由意志と権利を尊重しなければなりません。
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