バプテスマ-洗礼の意味を考えてみます。何が神の御心でしょうか。教派によって解釈の違いがあるテーマです。教派の伝統ではなくて、神の御心に適ったバプテスマの意味を探ります。
神が制定したバプテスマ
バプテスマが、神によって制定されたということを、まず最初に説明します。バプテスマは、人間が造り出した儀式ではありません。作者は主なる神様です。
象徴的な意味
聖書が教えているバプテスマには、その行いに霊的な意味があります。象徴的な意味があります。たとえば、水は神が罪を取り去る清めを象徴しており、受洗者の心の清めを象徴しているのです(1ペテロ3章21節)。水の象徴も神の業なのです。その他の象徴的な意味は、後で説明します。

バプテスマのヨハネは、神の命令によってユダヤ人たちに悔い改めのバプテスマを授けていました。主イエス・キリストの宣教の準備のために、バプテスマを授けていたのです。神がヨハネに与えたミッションは、人々が神の子イエス・キリストのことばを聞くようにするための心の準備をすることでした。このようにバプテスマは、人間が作り出した儀式ではないことがおわかりになるでしょう。(マルコ1章2節ー8節)
ヨハネはバプテスマを授けてはいましたが、クリスチャンのバプテスマとは違います。 クリスチャンのバプテスマはイエスの名によって授けられ、その結果、受洗者は聖霊と罪の赦しを受けるのです。イエスは、十字架の上で死んで埋葬され、3日目によみがえります。そのよみがえった後に、イエスは弟子たちに大宣教命令を与えます(マタイ28章18節-20節)。
主イエスの命令 マタイ28章18-20
- 天地におけるすべての権威が、主イエス・キリストに与えられてる。
- すべての人たちにキリストの教えを教え、キリストの弟子にする。
- 教えた人々に父と子と聖霊の名によってバプテスマを授ける。
- そしてキリストの教えのすべてを守るように戒める。
- 世の終わりまで、キリストは弟子たちとともにいると約束されている。
この命令に示されているように、バプテスマは神によって制定されているのです。では次に、バプテスマの意味をキリストの十字架と復活に関連付けて説明します。バプテスマの3つの意味を解説します。
バプテスマとキリスト
十字架
主イエスは弟子たちに次のように尋ねます。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることは出来るか」と。主イエスの杯とバプテスマは、十字架の死を象徴しています。主イエスは、「肉体的に十字架にかけられ死ねるか」と聞いているのでしょうか。そうではありません。主イエスは、ただ一度、私たち人間の代わりに死んでくださったのです。
クリスチャンは、主イエスの十字架の生き方に倣い、主イエスと共に生きていくことが求められているのです。バプテスマは、神が定めているクリスチャン人生の出発点です。単なる儀式として、見過ごすものではありません。イエス・キリストを人生の師として信じた人は、水の中に入り主イエスと共に象徴的に死ぬのです。
復活
バプテスマは、主イエスの十字架の死を象徴しているだけではありません。主イエスの復活も象徴しているのです。信仰告白した人が、水の中に全身が浸かり霊的に死んだ後、水から上がり霊的に復活するのです。主イエスの十字架と復活が、クリスチャンの人生において成就される出発点ですローマ6章3ー11節を読んでみましょう。
キリスト者の人生の出発点は、キリストの復活を経験するバプテスマです。バプテスマとは、キリストと共に死んで生きると決めた人が受けるべき神が定めた「イエス・キリストとの結婚式」のように考えられます。でがキリストと共に死ぬとはどんな意味でしょうか。主と共に生きるとはどんな意味でしょうか。
キリストと共に死ぬ意味
ルカ9章21-23節を読んでみましょう。主イエスは、自分が十字架にかけられ死ぬことを預言されます。その後、私たちにも、「あなたがも十字架を負いなさい」と。十字架は死を象徴しています。具体的に死ぬとは、自分を捨てることです。自分の知恵や力に頼っている私たちにとって、自分を捨てるのは至難の業です。
日本語には、「バカは死ななきゃ、治らない」という言葉があります。愚か者は、死ぬまで同じような失敗、愚かな行いをするので、死ぬまで治らないという意味です。クリスチャン人生でも同じです。自分自身に対して、罪に対して死ぬ、自分の愚かさに対して死ななければ、クリスチャンとして生きていけません。
人にはそれぞれ違った欠点があったり、変えるべき習慣があります。私の場合は、お酒でした。私の両親は、酒場を経営していました。そんな理由で、十代の頃からお酒を飲み始めました。私が子供の頃から聞いた言葉は、酒は飲んでも呑まれるなです。まさにそれを実践して、お酒を飲んでいました。変な子供だったと思います。
しかし、自分にとってアルコールを止めるぐらいでは、自分を捨てることになりませんでした。自分を捨てるとは、生活のすべての分野に及びます。自分の言動、罪深い感情、思い、考え、生活習慣、人を自分のように愛せない自己中私的な態度、神様を生活の中心に置かない態度、すべてを変えなければなりません。
キリストと共に生きる意味
主の弟子として
自分を捨てるとは、神様に対して心の底から告白することです。「あなたの思い通りに、私は生きていきます」、と。しかし、自我は、雑草のようなものです。根っこから抜き取っても、化学薬品で完全に殺してもまた生えてきます。1週間もすると、知らぬ知らぬ間に、また生えてきます。自我が神様の御心よりも強くなってしまう時があります。そのたびに、悔い改めて、自分を捨てて、この雑草を根っこから殺さなければなりません。
神様に白旗をあげて、人生を白紙に戻して、新しい人生が可能になります。一度、人生を白紙に戻さない限り、中途半端なクリスチャン人生になってしまいます。ただその白紙の状態は、ある日突然やって来るものではありません。まず考え方を変え、行動を変えます。そして最後に、心が変えられます。このプロセスは、主イエス様が、私たちの人生に介入して働いて下さり、徐々に白紙の状態になるのです。主イエス様の聖霊が入り、新しいロードマップを書いてくださいます。私たちは、ただひたすら、このロードマップに従って歩むのです。

バプテスマは神の働き
この世には、いろんな生き方があります。その生き方で、どれを選ぶのかは、私たちが決めることができます。主イエス様の道をまっすぐに見て生きていくのか、それとも他の人の生き方を見て真似るのか、それは自由です。でも一つだけ、確実にわかっていることがあります。それは、主イエス様の道が一番であり、もっとも良い生き方、最高の生き方、一番幸せな生き方であることです。
主イエス様は、今、私たちと共に、聖霊として、この礼拝に臨在しておられます。私たちと共にいます。そして私たちに言っています。「自分を捨てて、十字架を負って、私について来なさい」と。私たちはどのように答えるべきでしょうか。もちろん、私たちの答えは、「はい、ついて行きます」です。今週、一週間も、主イエス様について行きましょう。
以上、聖書が教えるバプテスマの意味について解説しました。教派間では様々な解釈が存在します。オープンな心で聖書を基に、この記事が正しいかどうかを精査してみてください。吟味をお願いします。ご質問などありましたら、コメント欄または問い合わせからお願い申し上げます。
