コンテンツへスキップ 投稿日:2025年4月13日/更新日:2026年1月27日
HOME » 聖書入門サイト » 新約聖書の解説 » 山上の説教を解説 » 憐れみ深い人は幸い-マタイ5章7節

憐れみ深い人は幸い-マタイ5章7節

「憐れみ深い人は幸い。その人は憐れみを受ける」マタイ5章7節。キリストが教える真理は、私たち人間に何を教えているのでしょうか。神様の憐れみと人間の憐みが、どのように関係しているのでしょうか。どのように私たちは、憐み深く人に接することが出来るのでしょうか。

神様は2つの関係を大切にする

神様は2つの関係を大切にします。一つは、私たちと神様との関係です。二つ目は、私たちの人間関係です。キリスト者の神との関係は、その人の人間関係からかけ離れて存在しているわけではありません。ある人の神との関係は、その人の人間関係と相互関係にあるのです。

ある人がこんなことを私に言いました。「神との関係がしっかりしていれば、人間関係がどうであれ気にしない」と。これは誤った考えです。詩篇18篇26-27節を読んでみましょう。

マタイ5章-7章全体に、「神との関係と人間関係」の基本原則が教えられています。他人を厳しく裁く人を、神は同様に裁かれます。「もし人の赦さないなら、父なる神もあなたがたの過ちを赦さない」とも書かれているように、恵み深い神様が、人を赦すことができないときがあります。

人間関係と神様との関係

私たちの人間関係は、創造主なる神との関係に必ず反映しています。日々の生活でどのように過ごしているでしょうか。隣人に愛、誠実、親切に接しているでしょうか。そのような態度が、自分の心の成長にも不思議とつながっているのです。

「仏教でも同じようなことを言っているのではないか」と思う方もいるかもしれません。仏教用語の中に「因果応報」という言葉があります。辞書によれば「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ」と書かれていました。確かに、上記の聖句と同じ人生原則が示されています。なぜでしょうか。人間には、神によって良心、善悪を判断する能力が与えられているからです。現実社会を観察して、そこから真理を見出す能力が与えられているのです。しかし、人間の良心には限界があります。私たち人間が知るべき人生の真理の半分も、知り得る事は出来ないでしょう。

憐れみ深い人

他人に厳しく自分に甘い人

他人に厳しく自分には甘くなる罪深さは、今も昔も変わりません。主イエス様のたとえから学んでみましょう。

イエス様のたとえ話 

マタイの福音書18章23-35節を読んでみましょう。この人はどれほどの借金を免除されたのでしょうか。日本円に換算すると約9000万円~1億円です。謝金が免除された後、この人は主人の憐れみをすべて忘れたかのように、自分に借金(日本円に換算すると180万円)ある人に返済を迫ったのです。驚きだと思いますか。

しかし実際には、私たち自身がこのような態度をとる時があります。神様が私たちに与える憐みと罪の赦しは、私たちの人間関係に鏡のように反映しているべきなのです。

自分の過ちを棚に上げて

私たちの罪深さによって、他人には厳しいけど自分には甘くなるりがちです。他人の過ちを見つけると、自分の過去の過ちなど100%忘れて、ここぞとばかりに突っ込んでくる人がいます。このような人はすごくマジメな人です。管理人は、多くのこのような人に遭遇してきました。しかし、私たちは、みんな愚かな人間です。同じ間違いを繰り返し、繰り返しやっても、神様は憐れみによって赦して下さっています。そのことは決して忘れてはいけないのではないでしょうか。

憐れみ深い人

キャンセルカルチャー

憐れみ深い態度を持つのは言うのは簡単ですが、実践は難しいのです。なぜなら、罪人である私たちの心には、憐みは元々存在しないからです。特にアメリカで見られる現象ですが、私たちはキャンセル文化で生きています。クリスチャンもこの文化に影響されています。

何か間違いを犯せば、キャンセルされます。数年前まで、ワクチンを受けたか、受けないかで、クリスチャンの間でも論争が起きました。受けた私は信仰がないとも言われました。

その他にもたとえば、「私に賛成できないなら親友じゃない」のように言っているのをネット上で見ることがあります。その人たちと同調しなければ、憐れみはない世の中、社会で私たちは生きているのです。クリスチャンも例外ではありません。この混乱した社会で生きている私たちは、正しい見方をしなければなりません。神様がどれほど憐れみ深いお方かに焦点を当ててみましょう。私たちは神様の恵みによって罪赦され、憐れみによって受け入れられました。そのような資格もないのに、憐れみを受けたのです。

憐れみ深い人は幸い

憐み深い人は幸いを実践する

神様の憐れみは、罪の赦しだけではありません。生活のすべてに関係しています。主イエス様は、憐れみによって人々を受け入れたのです。私たちがどのように憐れみを実践できるのかを検証してみましょう。最初は、貧しい人たちに憐れみを程保護しましょう。15年間、私は教会に食べ物を求めて教会に来る人たちに施しをしています。これには複雑な思いもあります。なぜなら、その人たちの中には好き好んでホームレスの生活をしているからです。しかし、そのような人たちに憐れみを施すのは、神様の御心だと思います。

2番目に、失敗した人たちに憐れみを示しましょう。再生するチャンスが必要な人たちです。なぜなら、私たちも同様に失敗するし、失望させることをしてしまう時があり、再生するチャンスが必要だからです。そして、最後に私たちを傷つける人たちにも憐れみを示しましょう。私たちの間に、完璧な人などいません。ですから、いつかどこかキリスト者が、他のキリスト者を傷つけてしまう事があります。こんな時、神様の憐れみを必要としています。傷つけた方も、傷つけられた方も、神様の憐れみを必要としているのです。

憐れみ深い人々は幸いであるという教えは、私たちがどんな人間か映し出しています。私たちが、神様の民である、主イエス様の弟子であることを映し出しています。神様の憐れみによって、私たちは生かされています。私たちは罪の赦しと恵みを受けています。神様の憐れみによって、礼拝に出席することができて、神様をほめたたえる事が出来るのです。神様の憐れみに、私たちの存在意義があるのです。

憐れみ深い人になり天の御国で生きる

夏目漱石の小説に次のような言葉があります。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」確かに名文ですね。草枕の冒頭に出てくる明文です。理知的でいようとすると人間関係に角が立って生活が穏やかでなくなり、情を重んじれば、どこまでも感情にひきずられてしまって、とかく、この世は生きにくいというわけです。

確かに、生きにくい世の中で、私たちは生きています。だからといって、人生に失敗する必然性はありません。むしろ、神の力と知恵をいただき、豊かな人生を生きる処方箋が与えられています。他人に憐れみを施し過ちを赦せば、自然と人間関係が改善されるでしょう。当然、神の祝福も受けるのです。

この世で生きている限り、良いも悪いも、この世の影響を受けないわけに行きません。しかし、私たちは、神様の御国の中で生かされています。私たちの生きる基準は、主イエス様にあります。聖霊なる神様によって導かれ、日々造り変えられています。この一歩一歩の道は、主イエス様が再臨される時まで続けられます。世の中がどんな変わっても、この一歩一歩の道は変わらないように、歩みましょう。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください