最近のスポーツ選手の活躍、たとえばボクシングの井上尚弥選手や野球の大谷翔平選手の活躍は目覚ましいものがあります。彼らから刺激を受けて、多くの若者たちが、ボクシングや野球において高みを目指しています。高みを目指す志しが、大谷選手のようにうまくいく場合もありますが、逆にストレスになってしまう事例も多数あるようです。この記事では、高みを目指す健全な態度について、クリスチャンの視点から考えます。
1.高みを目指す生き方の落とし穴
多くの若い現役ボクサーは、井上尚弥チャンピョンを憧れのボクサーとしてあげています。確かに向上心をもっているボクサーの方々が、このように思うのは当然でしょう。いくら才能があっても、誰もが井上チャンピョンになれるとは限りません。一部の人だけが世界チャンピョンになるのですが、それでも井上チャンピョンのようにパウンドフォーパウンドの候補に成り得ないでしょう。
ここに落とし穴があります。人は自分がいる位置によって、自分自身を評価しがちです。上か下かで自分を評価しているのです。下を見ればきりがありませんが、上を見てもきりがありません。上にはまたその上がいるものです。上に登りつけない自分に対して、劣等感をもつのもこんな時です。
目標達成できていない自分を振り返る時、この苦闘のプロセスで自分自身を見失ってしまいがちになります。てっぺんまで行けない現実を見る時、自分はいったい誰なのか、何をしたいのか思い悩むでしょう。絶望の中で苦しむかもしれません。憧れの人のようになりたいと願っても、自分はまったく違った人間であることに気づかされます。そこで次の視点から見てみましょう。

2.自分を最大限に生かす生き方
では高みを目指すために、自分を最大限に生かす生き方について考えてみます。現在の教育現場の風潮として、昭和の時代と違い、先生たちは、生徒の各自の長所を最大限に生かしてノビノビと教育しているようです。この風潮は、会社にも影響を与えています。今の若い人には頭ごなしに叱れないという声も聞こえます。
とはいえ、自分を客観的に見つめ、自分の長所を最大限に生かして生きようとすること程、我々人間いとって悩ましい問題はないと思います。長所は短所の裏返しと言われるように、短所を消して長所を生かそうとしても、短所と一緒に長所も消してしまうことも有りうるからです。
あるいは、目標を大谷選手のようなスーパースターにおいても、「大谷は大谷、自分は自分」と最終的に気づかされるのではないでしょうか。冒頭で書いたように、他の人と比較して目標を定めてもあまりうまくいきません。他と比較すると、人は劣等感か優越感を持つようになってしまいます。精神衛生上、非常によくありません。
そこで「主イエス様を目指して高みを目指す生き方」を提唱したいと思います。

3.高みを目指すクリスチャンの視点
主イエス・キリストは今、天にいらして天地万物を支配しておられます。この方は、天にいらして遠くにいますが、実はすごく身近にいるのです。私たちクリスチャンと寄り添い歩いてくださっています。
高みを目指すクリスチャンの視点は、どこにあるのでしょうか。その目は、天にいらっしゃる主イエス・キリストに向いています。この方は、「わたしについて来なさい」といつも優しい声をかけてくださっています。耳には聞こえない声ですが、信じる人の心に響く声なのです。
偉大な主イエス・キリストに目をすえる時、不思議なことに、私たちは心から謙虚になり、この方だけを信頼して生きていこうと決心できるのです。
わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。ピリピ3章10-14節 聖書協会

自分の将来や可能性は、自分自身ではわかりません。まだまだ伸びしろがあるのに、自分自身で成長の蓋をしてしまっているということはないでしょうか。私たち人間は、死を迎えるまで霊的に成長できる、と私は考えています。主イエス様を目指す生き方は、終わりのない成長です。常に前に進み、主イエス様のように、クリスチャンは成長していくと思います。
他と比較して自分を評価することなど、もはやありません。ゆえに、他の人に対する不健全な優越感もないし、自分自身に対する劣等感もないのです。今いる自分自身が置かれている場所に感謝をし、自己中心的ではなく自分自身を愛せるようになれます。
また過去の過ちやを振り返り、悔いても悔やみきれず涙することもありません。なぜなら、すべての過ちは洗い流され、新しい人生が始まっているからです。常に前進して、主イエス様の再臨を待ち望み、希望と喜びをもって生きていけるのではないでしょうか。ハレルヤ、主イエス様の名によって神様に感謝いたしましょう。主イエス・キリストの恵みに与り、喜びと希望と愛に満たされた人生を送ってみませんか。
