コンテンツへスキップ 投稿日:2023年1月3日/更新日:2025年3月10日

イエスの教えが導く生き方

紅葉の森林で人生に必要な物を探す

私たち人間は、人に必要なものは何かを知っているつもりで生きています。自分が何のために生きているのか、何を目標に過ごしているのか、自分の立ち位置を知っていると思っています。イエス・キリストは、私たち人間にとって本当に必要なものは何かを教えています。イエスの教えが導く生き方について考えます。

受験生であれば、合格のために懸命に勉学に励んでいるのかもしれません。仕事に精を出していたり、母親として子育てに追われている方も大勢いるでしょう。一時的ですが、それが人生の目的の一部であり、自分の立ち位置を決めているんです。

主イエス・キリストの教え

神である主キリスト様の宣教メッセージは、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。(マルコ1章14節ー15節)神の国とは一体何でしょうか。さらに、主キリストは、「何よりもまず第一に神の国と義を求めなさい」と教えています。人間にとって、神の国がそれほど大切だという理由は何でしょうか。

この世の中は、霊的な悪の力である悪魔が猛威をふるい、その結果、多くの人々が悪を行っている世界です。このような状態を聖書は罪と断じています。悪魔がこの世の支配者として、我々人間を苦しめているのです。人間の欲望は、自らの首を絞めているようなものです。国の法律に反する犯罪に限らず、人々の小さな悪が心を蝕んでいるのです。環境汚染地球温暖化も人間の罪ゆえに起きてしまっています。

しかし、主イエス・キリストは、私たち人間をこの罪の呪縛から解き放つために、天から人と成ってこの世に住まわれました。約2000年も前の話ですが、主キリストは現在のイスラエルの地に生まれ、約30歳の時にユダの人々に「神の国が近づいた」と宣教し始めました。神の国とは、悪魔の支配とは対照的に神の支配を現しています。神の支配の中で、私たち人間が平和的に生きるようにと、神はキリストを信じる人たちに恵みを与えているのです。この狂った世の中でさえも、クリスチャンは、神の聖霊によって守られ平和的に生きることが出来るのです。これが、人間にとってもっとも大切なもの、大切な宝です。人の宝があるところに、その心もあります。

主イエス・キリストは、神の御国が私たちの財産よりも、どんなものよりも大切であるとが強調しています。だから他の持ち物を売り払ってでも、その宝である神の御国を買いなさいと諭されています。その理由は、人間が神の大いなる祝福を受けることが出来るからです。

私たちが「これが欲しい、あれが必要だ」という前から、主イエスは私たちの心を見通して、私たちの心をえぐるような鋭い言葉、しかし世界で一番優しい言葉で諭してくださいます。主イエスの御言葉は私たちを励まし、時には私たちの心の奥深く潜む罪を指し示してくれているんです。

人間の思い、欲望

大昔から人間は求めるものは、常にこの世の富です。お金があり余ってもっていても、十分だと思えないのが、人間の性です。さらに社会的な地位も、どれほど財産を持っているかによって決められてしまいます。大きな家に住んでいる人は、当然ながら、その地域の有力者として見なされるでしょう。だから、人間はどん欲に富を求めようとします。

多くの場合、あり余る富は、人を堕落させてしまいます。アメリカでよく聞く事例があります。あちらのロッタリー・チケットの当選金額は、日本の宝くじと比べて、桁が違います。今までの最高額は、$768.4 millionです。1$=100円と換算します。$768,000,000 ですから、これにゼロを二つ足すと、何と76,800,000,000円です。768億です。親戚や友人が、ハエのごとく群がって、その人の人生を破壊してしまうのです。多くの当選した人の最後の人生の結末は、悲劇に終わっています。

このような人間の悲劇を見ても、人は常に富を求めて生きています。主イエス様は「あり余るほど物を持っていたとしても、人の命は財産によって測られるものではない」と言って、私たちを戒めています。確かにお金がすべてではないと、私たち人間は心のどこかで分かっていながらも、実際はお金がすべてのように生きてしまっています。人間が本当に必要としている物は、この世の富でも名声でもありません。私たち人間は、必要なものは何を知って生きていると思っていますが、主イエス様は天から降りてきて、私たちが本当に何が必要かを教えて下さったのです。私たちの人生と命を、まったく違った観点から、定義付けしてくれています。

私たち人間は生きていくために、肉体的にいえば食べなければなりません。食べて体に栄養を与えるから生きていくーーこれが人間が定義する命です。病院で入院している重病人であっても、心臓が動いていればまだ生きています。しかし、心肺停止になれば死を迎え命に終わりが来ます。人間が定義する命とは、他の動物と同じように血肉の命なのです。関連記事食べることが生きること

人間の命は血肉の命に過ぎないと考えれば、当然、血肉の命を維持するためのことだけを、私たち人間は考えるでしょう。良い生活をするための質の良い衣食住を得るために、裕福になろうとするでしょう。極端な場合、金銭欲が人の生活を動かしているとも言えます。

しかし、命には肉体的な命の他に霊的な命があると聖書は教えています。主イエス様とつながってはじめて、私たちの霊的な命は生かされるのです。

イエスの教えが導く生き方

どのように生きるべきか

では私たち人間は、どのようにこの人生を生きていくべきでしょうか。神である主イエス・キリストは、人種や文化を問わず私たちすべての人間が守るべきもっとも大切な戒めを教えています。

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」マルコ12章28-31節 聖書協会

祝福の人生を歩むために、2つの戒めを守りなさいと教えられています。人間の人生は、創造主なる神との縦の関係と人間同士の横の関係で成り立っています。その2つの関係を大事にしなさい、とこの戒めは示しています。意味を考えてみましょぅ。

心、精神、思い、力を尽くして、神を愛しなさい

唯一の神は、天地万物すべてを創造された創造主なる神です。今もこの神は、天にて生きておられ、すべてを支配しておられます。万の神々とは違います。私たち人間は、創造主なる神によって他の動植物とは区別されて創造されたのです。だから、人間は生まれた時から神との関係を持っているのですが、罪ゆえにその関係が断たれてしまっているのです。

創造論は、キリスト教に限ったことはありません。ただ仏教だけは創造論は持っていないようです。この世もこの宇宙も無始無終だそうです。万物の創造主を仏教はどう見るか

そのような私たちをイエス・キリストは「神を信じ、わたしを信じなさい」と招いています。主キリストを通して私たちは、神との関係を持つことが出来るのです。なぜなら、キリストも三位一体の神だからです。神を信じて慕い求めること、神を愛すことが、私たち人間の第一の命題です。神の憐みなしには、私たちは存在することも出来ません。

私たちが神を愛すとは、全身全霊の思いであり行いです。人間がもっているすべての能力や感情(心、精神、思い、力)を尽くして、神を愛しなさいと戒められています。神を愛すためには、神を信じる関係が前提にあります。わたしたちが神を信じれば、それは神を慕い求める愛に変わります。神の支配と教えを求める信仰になり、神を愛する信仰に変わります。

神はわたしたちがすべてを尽くして愛すように望まれています。単なる表面的な儀式的な礼拝によって、表現されるものではありません。心から出る熱い思いや感情によって、人は神を愛すべきですが、感情だけではありません。知性や理性によっても神を愛します。感情に流されたりしない強い意志によって、神を愛すことではないでしょうか。

隣人を自分のように愛しなさい

この律法学者は「数ある律法の中で、何が一番大切な掟ですか」と聞きました。彼も当然1つの掟だけを聞くだろう、と思っていたでしょう。ところが、キリストは第一の掟に加えて、第二の掟も同様に重要であると言いました。

なぜでしょうか。その理由は、2つの掟、神を愛すことと隣人を自分のように愛すことが表裏一体の関係にあるからです。お札の表裏一体の関係と同じです。片面が偽物であれば、全体が偽物です。この2つの掟にも同じことが言えます。隣人愛の実践

攻撃は最大の防御と言われますが、人間関係には当てはまりません。人間関係の基本は隣人愛。礼儀、マナーは最低限の隣人愛の表現です。最近の風潮と合わせて考えてみましょう。数年前にれいわ新選組の2人の議員が、予算の採決の際に牛歩戦術を使ったというニュースが流れました。ここまでは許容範囲です。さらに議長に対して「この愚か者!」と叫んだというのです。国会のルールは詳しく知りませんが、この発言は明らかなマナー違反です。

格闘技の影響か分かりませんが、最近は「自己主張を所構わずやるべきだ」という風潮があります。しかし、若い人たちの手本となるべき国会議員がこのようなマナー違反をしていいのでしょうか。過激な発言をして注目を集めたいのでしょうか。過激な発言をする人がヒーローになっている世の中ですから、国会議員の方もこのような発言をしてしまうのでしょう。しかし、もし世の中を本当に改善したいのであれば、隣人愛は不可欠です。

神が定める隣人愛は、自分を愛するように隣人を愛すことにあります。自分を愛せない人、劣等感で苦しんでいる人が、どれほどこの世の中にいるでしょうか。その逆に、自己中心的な自己愛で身を守っている人を守っている人もいます。これも人間の罪が成せる業なのです。

このような理由で、罪深い私たち人間には愛を理解できません。主イエス・キリストは愛の基準を私たちに示してくださいました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたもお互いに愛し合いなさい」と教えています。私たちが隣人愛を考える時、必ず主イエス・キリストに立ち返る必要があります。主イエス・キリストに真実の愛があるからです。

同時に、私たち人間は一生涯、この愛を理解するために神である主イエス・キリストに学び倣うのです。主キリストについて行く霊的な成長のプロセスの中で、人は隣人を自分のように愛すことが出来るようになると、管理人は信じています。人生の道のりは長いですが、主イエス・キリストは常に信じる者といっしょにいます。

主イエス様は、あなたに招待状を送っています。「わたしの下に来て、わたしに学びなさい」と言っています。この招きを受け入れて、主イエス・キリストの言葉に日々耳を傾けてみませんか。