コンテンツへスキップ 投稿日:2025年9月22日/更新日:2025年12月29日
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キリストを知らない日本を憂う5つの理由

日本を憂う

日本は独自の文化と歴史を持つ国であり、仏教や神道を中心とした信仰が根付いています。しかし、近年、キリスト教の存在感は薄れつつあり、日本人の霊的救いが求められる状況にあります。本記事では、キリストを知らない日本を憂う5つの理由から考察し、この問題が日本社会に与える影響を探ります。信仰の多様性が尊重される中で、キリスト教のメッセージがどのように日本人の霊的救いに寄与できるかを考えるきっかけとなれば幸いです。

創造主なる神を無視する日本を憂う

偶像礼拝はどこの国でも存在しますが、日本ほど土着の宗教になっている国は少ないかもしれません。古代日本においても、21世紀の現代においても、偶像礼拝は神社仏閣で大手を振ってまかり通っています。そこには創造主なる神の存在も権威も何も認められていない現実があります。

偶像礼拝の愚かさについては他の記事で書いています。創造主を認めないとは、人間にとってどんな意味があるのでしょうか。人間を含めた自然すべては、偶然の産物ではありません。それぞれにデザインがあり、そのデザイナーが存在しているのです。そのデザイナーである創造主なる神様を人間が認めないとなると・・・人間自身が創造主になってしまうのです。

人間は神々がどのような方であるかを定義します。日本にもそれぞれの地域の人々が、それぞれの神々を定めます。たとえば、学問の神様、安産の神様、家内安全の神様、その他、雑貨屋の様な何でもアリの神様もいます。人間の思いのままに、都合の良い神様を作り出すことができます。このような罪を犯している日本には、唯一の神の裁きが下ります。この記事の最後に神の裁きについて言及します。

道徳観がなくなった日本を憂う

日本の道徳観は、神道に由来する「自然崇拝」、儒教の影響による「思いやりと誠実」の重視、そして仏教の「慈悲」が見事に融合してきました。その結果、自然との調和、他者への配慮、そして謙虚を重んじてきました。日本人だけで占められてい日本社会では、容易に秩序が保られてきたのです。

しかし、2025年の日本社会はまったく違います。日本人の単一民族だけで成り立っているような社会ではありません。価値観が多様化され、国際化が進み様々な人種の人々が生きています。古い日本の伝統的な道徳観は、今の日本社会には通用しなくなっています。道徳観の欠如と共に、より混迷が深まり日本社会は悪へ向かっているように、管理人には思えます。

それだけでなく、この社会ではお金が偶像となり、人を踏み台にしてまで上に登り詰めることが一つのステータスになっています。「思いやり」や「謙遜」は、人々の会話にはない死語になっているのではないでしょうか。実際、思いやりの気持ちや謙虚な態度が、忘れ去られているのが日本社会の現状です。次の聖句が今の日本社会を説明しています。

あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。ローマの手紙1章29-32節 聖書協会

現在、私たちは上記に示された世の中で生きているのです。日本社会の罪深さは、法律を犯す犯罪だけに現れているのではありません。むしろ、多くの悪は目に見えない所で行われ、警察で取り締まりはされていない所で行われているのです。たとえば、違反スレスレの誇大広告があちこちで見られます。購買者をだますような詐欺まがいの商法がまかり通っているのです。

またこの聖句で説明されている罪深さと悪は、日本人の人間関係にも表れています。強盗・殺人などの犯罪は、目に見える罪です。これらの犯罪は、火山のマグマのように燃えて火山が噴火するのと似ています。人間の内面にある怒りや悲しみが、沸々を燃え続けているのです。抑えきれなくなった時に、人は爆発して親子関係、友人関係、夫婦関係を傷つけるのです。

この様な罪と悪で染まった世の中に生きていても、多くの日本人が「自分は悪とは関係ない。自分は善人である」と考えているのです。次に「自分は善人」という概念について考えてみます。

日本を憂う

自分は善人と考える日本を憂う

自分は善人であると考える愚かさについては、すでに記事にしています。たとえ人間の罪を認めない人であっても、「私たち人間は悪が蔓延している混迷した世の中に生きている」ことは認めるでしょう。私たち一人一人が、この世の中の一部なのです。この暗い世の中に何らかの形で関係を持っているのです。間接的に悪を行っているのです。

汚れた水の中に生きている魚は、その汚染された水から逃れることは出来ません。何か悪い影響が現れるでしょう。私たち人間も同じです。この汚染された世の中で生きている限り、「悪の影響を受けていない」なんて言えないのです。

聖書は、すべての人は罪の下にいると宣言しています。この事実に心を開き、自分の心に宿る悪について真正面から向き合ってみましょう。道徳観の欠如に関連して、管理人は日本人の戦争反対の考え方について憂いを覚えます。

日本を憂う

戦争は他人事、戦争反対を願う日本を憂う

管理人は1956年(昭和31年)生まれの戦後世代です。アメリカに追い付けとばかり、戦後の高度成長が始まった時期でもありました。そのような世の中でも終戦記念日である8月15日は、毎年、日本国民にとって特別な日になっていました。

戦後80年が経ち、戦争に対する恐怖心は薄まっているのかもしれません。多少なりとも政治が右寄りになりつつも、日本人の戦争反対の声は未だにあります。そこで私が憂うのは、日本人の戦争に対する考え方です。日本人は戦争は他人事です。日本人が戦争に巻き込まれないことを願っています。「当然でしょう」と声が聞こえてきそうです。

核兵器反対を唱え、戦争反対を声高に訴えています。ここでも「自分は善人である」という考え方が背景にあるのです。「米軍基地は日本を守ってもらうために駐留しているのだから、戦争はアメリカに任せておけば良い。私たち日本人は手を汚す必要はない」と考えているのです。これもかなり自分勝手な自己中心的な考え方ではないでしょうか。

管理人は、「日本も戦争に加担すべきだ」と言っているのではありません。むしろ、戦争は人間の罪ゆえに起こるものと認識すべきだと主張しているのです。自分だけが善人づらはできません。戦争反対の理由は、ただ単に戦争に関わりたくないだけの理由ではありません。戦争と言う行いは罪なのです。

戦争は決して他人事ではありません。侵略されてきたら(もちろんそんな事望んでいませんが)、防衛はアメリカ軍にお任せで、私たち日本人は何もしないのでしょうか。

日本を憂う

神の裁きを知らない日本を憂う

最後に、神の裁きを知らない日本について考えてみましょう。。神様の裁きの日は、明日、来週、100年後、1000年後でしょうか。その日、その時は父なる神様以外、誰も知りません。しかし、その日は必ず来ます。

日本人のほとんどの人々は、イエス・キリストを信じていません。父なる神様は、日本という国、この国の人々をどのように裁くのでしょうか。まったく見当もつきません。一人でも多くの人が、イエス・キリストを信じるように願うばかりです。最後に次の聖句を引用して祈りをささげます。

主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」ルカ12章42ー48節 聖書協会

神様は公平なフェアーな裁きをなさいます。主イエス・キリストを知っている人は多くを求められ、まったく知らない人は少なく求められます。この意味は、神様の最後の審判を下される時に明らかにされます。管理人は、99%以上の日本人が主イエス様を知らない事実を省みて、祈りをささげます。聖霊なる神様が、日本人の一人一人に働きかけ心の目が開かれますように。


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