kクリスマス はハプニング、想定外だった?世界で最初のクリスマスは、実は一つのハプニングから始まりました。すなわち、王の王、主の主であるイエスは、その両親に当たるヨセフとマリアがベツレヘムの宿屋には泊まれなかったことから、なんと家畜小屋の飼い葉桶に生まれたのです。これ以上のバニングがあるでしょうか?しかし、万事は益となる。このハプニングにこそ、大きな意味があったのです。・・・「災い転じて福音となる!?」
~災い転じて福音となる!~
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 」ローマ8章28節 聖書協会
世界で最初のクリスマス、すなわち、今から二千年前のクリスマスは、実は一つのハプニングから始まりました。

ヨセフとマリアは、税金調査のゆえになされた住民登録のために、ヨセフの故郷、ベツレヘムへと旅をしなくてはなりませんでした。マリアは既に身重になっていましたので、その旅はとても辛いものだったと思います。一刻も早く、身重のマリアを宿屋で休ませたいヨセフでしたが、時あたかも住民登録、二人と同じように旅をしてきている者たちで溢れかえっていたベツレヘムでは、どこの宿屋もいっぱいでした。そんな状況の中、月が満ちて陣痛が始まってしまったマリア。結局、二人は宿屋には泊まれずに、宿屋の外の家畜小屋で夜を明かすことになってしまったのであります。そんな寒くて、汚い家畜小屋で、マリアはイエスを産むことになったのであります。
ユダヤ人の王、いや全世界の王、“King of Kings”、人類の救い主として来られたにも関わらず、イエスは、貧しさと苦しみを象徴するような、寒くて臭い家畜小屋の飼葉桶に生まれたのであります。これこそ、まさに、大いなるハプニングではないでしょうか?
しかしながら、「災い転じて福音となる」。このハプニングにはそれなりの意味があったことが、後で分かるのであります。

イエス・キリストの生誕 災い転じて福となる
当時、ベツレヘムの郊外では、羊飼いたちが羊の群れの番をしておりました。古代ユダヤにおける羊飼いという存在は、24時間労働のために、神殿にも行けず、また、安息日も守れませんでした。ですから、ユダヤ教指導者や一般的なユダヤの民衆からは「罪人」のレッテルを貼られ、ヘブライ語で“アム・ハー・アーレツ(地の民)”として差別されていたのであります。ですから、もし、救い主イエス・キリストがベツレヘムの立派な宿屋やエルサレムの王宮で生まれていたら、羊飼いたちに真っ先に救い主の誕生が知らされたり、また、彼らが幼子イエスに最初に謁見するなどということは不可能だったのではないでしょうか?万事、益となったのであります。
イエス・キリストは、決して選ばれた人々のためだけではなく、全世界の民の救い主として来られた、誰でもお会いできる救い主として、この世に来られたのです。・・・私たちの人生にも、時に、予期しなかったこと、ハプニングが起こりますが、神は万事を益として下さり、時に、災いをも福音として下さることを信じて、一歩前に進みたいと思います。
イエス様(神様)の“二刀流”!?
イエス・キリストはある意味、神であり、人となられたお方として、究極の「二刀流」をされたと言えないだろうか?ヨハネによる福音書1章14節は、人呼んで「ヨハネのクリスマス」と言われる。ヨハネは、世界で最初のクリスマス、すなわち、キリスト降誕の背後には、神が人となるという、後に「神の受肉」と呼ばれる出来事があったことを説明しているのだ。その意味とは・・・?
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。…」(ヨハネによる福音書1章14節)
つい先日、プロ野球・元広島カープのレジェンド・助っ人、ゲイル・ホプキンス氏とお会いする機会がありました。子供の頃、父親から彼が敬虔なクリスチャンであることを聴いておりましたので、私自身は広島ファンではありませんでしたが、当時、ホプキンス選手を応援していたことを覚えています。
ゲイル・ホプキンス氏は、メジャー経験もある元野球選手であり、引退後は医者として働き、最後はキリスト教系の「オハイオ・バレー大学」の理事長も務められました。ちなみに、野球選手時代からその選手生命の短さを意識して、医学の道に進むことを考え、備えていたそうです。ある意味、野球選手と医者という、本物の「二刀流」なのではないでしょうか?ちなみに、野球における投打の二刀流は、高校野球までは決して珍しいことではありませんので、私自身は野球における投打の「二刀流」という言い方には多少とも疑問を感じております。

それはさておき、やや微妙な表現かもしれませんが、私たちの救い主、主イエス・キリストはある意味、神であり、人となられたお方として、究極の「二刀流」をされたと言えるのではないでしょうか?冒頭に掲げた聖書のみことばは、人呼んで「ヨハネのクリスマス」と言われる箇所です。ヨハネは、世界で最初のクリスマス、すなわち、キリスト降誕の背後には、神が人となるという、後に「神の受肉」と呼ばれる出来事があったことを説明しています。また、使徒パウロによれば「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ」(フィリピの信徒への手紙2章6~7節)たというのです。
ところで、なぜ、主イエス・キリストは、神でありながら、人となるという、究極の「二刀流」に踏み切られたのでしょうか?それはひとえに私たちの苦悩を≪アンダー・スタンド≫、文字通りには「下に立って」とことん“理解”し、私たちの負いきれない重荷を代わりに背負い、贖いの十字架に架かって下さるために他なりませんでした。
あの『ナルニア国物語』でも知られるC. S. ルイスは、神が人となるということは、人間がナメクジになることよりも過酷なことなのだと述べています。何しろ、永遠無限なお方が、有限矮小な人間の肉体をとり、しかも、何もできない赤ちゃんになられるのですから。ここに神の愛があるのです。これが言うなれば、クリスマスの舞台裏なのです。
読んで下さいました皆様、お一人お一人に、主なる神の平安が豊かにありますように! シャローム!!!
