主イエスに出会う人々は、神様の祝福を受けます。しかし、2000年前に実際に主イエス様に出会った人々は、もっと多くの祝福を受けたと思ったことはないでしょうか。何の世界でも、スーパースターに実際に会える人は、極わずかです。この地上で主キリストに出会えない私たちは、1世紀のクリスチャンよりも少ない祝福をいただいているのでしょうか。ヨハネ12章1-8節を読んでみましょう。

マリアがキリストの足を高価な香油で清める
神様の祝福の象徴として、サムエルは、ダビデの頭に油を注ぎました(1サムエル記16章)。これと似たような事がユダヤ教でも行われていました。上記の聖句では、マリアは主キリストの足を香油で清めていますが、マタイ26章とマルコ14章では頭に香油をかけています。この3つの福音書から、マリアは主キリストの頭にも足にも香油を注いでいたのがわかります。
主キリストは、マリアの行いを「ご自身が葬られる準備をした」と言っています。しかし、マリア自身はそんなつもりはなかったでしょう。マリアは、主キリストが十字架にかけられるとは予想もしていなかったからです。単に聖霊の導きのままに、主キリストに清めの儀式を行ったのです。
この行為を見ていたユダは、主キリストを褒めたたえるよりも、目先のことしか見ていませんでした。彼は自らの浅はかさを明るみにして、「香油を売って貧しい人々に施さないのか」と言ったのです。別段、彼が貧しい人たちに憐れみを持っていたわけではありません。単に自己顕示欲でこのようなことを主張したのです。

「わたしはいつも一緒にいる訳ではない」の真意
ユダの言葉を聞いた主キリストは、「わたしはいつも一緒にいる訳ではない」といいます。この意味は何でしょうか。マタイ28章18-20節には、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と言っています。この2つの聖句の違いは何でしょうか。
マタイ28章の言葉は、復活後の主キリストの霊的な臨在を示しています。一方、ヨハネ12章の聖句は、主キリストの地上での時間を指しています。
主キリストの地上でのミッションは、約3年間と限られていました。弟子たちが、主イエス・キリストと対面で話が出来る時間は限られている、と主は明らかにしたのです。なぜなら、主イエス様は、ご自分がまもなく十字架で死ぬことを知っていたからです。その比較として、「貧しい人々はいつの時代でもこの世にはいる」と主キリストは説明しています。

主イエスに出会う人の恵み
1世紀に主イエスに出会った人々
1世紀に主イエス様に出会い、直接みことばを聞いた人々は極めつけの祝福を受けたと思われます。残念ながら、今現在、わたしたちは主イエス様の生身の声を聞くことをできません。直接、話がしたくても、人となられた主イエス様はこの世にはいません。
また主イエス様に会った人々に、会うこともできません。肉の主イエス様に対面した人々は、2000年前に召されてしまったのです。21世紀の世では、誰も主キリストの顔を見ることもできないし、声を聞くこともできないのです。だからといって、主イエス様の真理はなくなってしまうのでしょうか。1ヨハネ1章1-3節を読んでみましょう。
主イエス様が教えている真理は、今も主を信じる人々の心に宿っています。祝福が宿っています。主イエス様に出会った人たちが、新約聖書として記録を残してくださっています。みことばと戒めを、21世紀に生きる私たちも聞くことが出来るのです。
主は十字架上で死にましたが、死んだままで終わった訳ではありません。この方は死からよみがえり、今天にいらして天地万物を支配しておられるのです。主イエス様は、世の終わりの時まで、主を信じる人々とともにいると約束されました。肉のイエス様ではなく、霊の主イエス様が、神様の聖霊としてクリスチャン一人ひとりに宿っているのです。
21世紀に主イエスに出会う人々
2000年前に主イエス様に出会った人たちと21世紀に生きるわたしたちは、まったく同じ恵みを受けています。神様の愛に満たされているのです。1ペテロ1章8-9節を読んでみましょう。
神様は霊なる方です。私たちの目で見ることはできませんが、霊なる神様は、私たちと共にいます。見守っています。クリスチャンの内に聖霊として臨在しておられるのです。目に見えない不思議な力で、私たちを励まし強めて下さってます。主イエス様は、21世紀に生きる私たちにも、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語っているのです。主イエス様に感謝しましょう。
