コンテンツへスキップ 投稿日:2022年1月5日/更新日:2025年12月10日
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自分は善人だと思う間違った3つの理由

誰にも相談できない

自分は善人、それとも悪人と思っているでしょうか。多くの方々は、「どちらかといえば自分は善人だと思う」と答えるかもしれません。この一般的な認識について、聖書をもとに結論を導き出してみましょう。

間違った3つの理由

良い習慣=良い人間と思っているから

渋沢栄一氏は、次のように言っています。「人生の行路は様々で、時に善人が悪人に敗けたごとく見えることもあるが、長い間の善悪の差別は確然とつくものである。悪いことの習慣を多く持つものは悪人となり、良いことの習慣を多くつけている人は善人となる。」

良い習慣を身につけて、人が善人になれるのであれば、日本には多くの善人がいるのではないでしょうか。このような理由で、ある人たちは「自分は基本的に善人」と思っているのかもしれません。しかし、良い習慣は、善人へと直接結びつきません。なぜなら、同じくらい悪い習慣を持っているからです。

悪人ではない=善人だと思っているから

ほとんどの日本人は、「自分は欠点ばかりの人間だが、少なくとも悪人ではない」と認識しているのではないでしょうか。つまり、悪人ではないから、「どちらかというと自分は善人である」と思っているのです。悪人=世の中の秩序を乱す人や法律に反する犯罪人と考える人が圧倒的に多いように思えますが、どうでしょうか。この悪人に定義によれば、犯罪に手を染めない人は善人と言えます。

しかし、人が見えない所では小さな悪を犯しているのではないでしょうか。他の人から分からないような小さな嘘をついたりすることはないでしょうか。他人が見ていたら決してやらないことでも、見られてなければやってしまったという経験はないでしょうか。多かれ少なかれ、多くの人がやってしまうことです。

次に、「自分が善人だと思ってしまう」究極的な間違った理由について考えてみましょう。 

自分は善人

善悪の基準は自分が決めて、自分の都合で変えるから

善悪の基準はどこにあるのでしょうか。それは自分自身が決めているのです。ですから、人は自分にとって都合が悪いことが起きると、その善悪の基準を変えるのです。私はどこの政党も応援はしていませんが、野党の政治家たちが政府与党の政治方たちを責め立てて、いざ自分たちが同じような過ちを犯した場合、その判断がブレるのです。

一番端的な例は、国民民主党の玉木さんの発言とその18年後に犯した自分の罪深い行いです。18年前、彼は次のような事を宣言しています。

政党というのは、聖人君子の集まりである必要は必ずしもないけれども、少なくとも、絶対に不正しない、絶対に不倫しない、そういう安心した信頼を得られる集団でなければならない。

そしていざ自分が不倫という大きな罪を犯すと、この発言はどこかに消えてしまったのです。おっしゃった事などまるでなかったかのように、ご自分に対しては非常に甘い処分をくだしたのです。誰でも他人には厳しく自分には甘くなってしまうのが、人間です。ですから自分は善人ですとは言えないのです。

魔法のランプがあったら…

暴力団の人たちでさえ、仁義に外れたことは悪だと考えます。彼らの中にも、善と悪が存在します。彼らも人の子、人の親です。彼らの半分くらいは、善人を自称するかもしれません。さらに「悪いのはこの社会だ!政治だ!俺らは何も悪いことなどしてない」と本気で言うでしょう。「自分は正しい。他人は間違っている」という自己中心的な考えは、少なからず誰もがもっています。この考え方に、人間の罪の大元の根っ子があるのです。

自分は善人の魔法のランプ

何でもかなえられる魔法のランプがあったら、使わない人はいないでしょう。 悪いことをしても、絶対に人に知られません。銀行に行ってすべてのお金を盗んでも、警察にも絶対にバレることはありません。透明人間のように現金を拝借していききます。あなたの手に入らないものはありません。夢みたいな話です。

嫌な人がいたら、この世から消えてもらうことが出来ます。殺人のような残酷なものではなく、そっと消えてもらうのです。お互いに消しっこゲームをします。どちらが先に消えてもらうか、恐ろしい人生ゲームです。しかし、こんな魔法のランプが実際にあったら、世界人口は半分以下、いや最終的には誰もいなくなってしまうでしょう。それくらい、人間が自己中心的であるという証明でもあります。

しかし、なぜ日本人には、聖書が教える罪の意識がないのでしょうか。悪いことをしてバレたら「恥ずかしい」と思っても、罪悪感は生まれません。世の中で行われている悪は、自分には無関係であると考える根拠は何でしょうか。根拠は、「自分は善人ではないが、悪人ではない」の考え方にあります。言い換えれば、「善を行わないが、悪も行わない」となります。しかし、人間が悪を行わないなんて可能なのでしょうか。

外部リンク 自分を善人と思っている人ほど

自分は善人

この世に善人、正しい人はいない

一方、聖書は「この世に善人は一人もいない。正しい人は一人もいない」と明言していまうす。すべての人が、悪を行い罪を犯したと書かれています。その根拠は何でしょうか。われわれ人間は、善の心をもっていても、何が善であるかを知っていても、その善を実践しない方が圧倒的に多いのではないでしょうか。見て見ぬふりして、意識的に忘れようとします。面倒だと思ってしまいます。善を知っていっても、知らんぷりすること自体が、もうすでに悪業であり罪なのです。

正直なところ、人が見ていなければ、または警察にバレなければ、平然と悪を行ってしまうことだってあります。ある歩道には信号機があるが、10mにも満たないような道路に信号機がついています。早朝には交通量はほとんどありません。急いでいるときは、思わず渡ってしまいます。もちろん、お巡りさんがいる前では、さすがにできません。目の前に子供がきちんと赤信号で待っている前でも、そのような交通違反はできません。こんなダブル・スタンダードが、わたしの心には宿っています。

心で犯す悪、人間の闇の部分

人は、行動で悪を犯さないようにしますが、本当の悪は心の中にあるのです。人は、他の人にネガティブな感情をもちます。表面上の行動に現れない心に秘めた悪い感情があります。たとえば憎しみ、怒り、蔑み、嫉妬心、無慈悲などです。すべてが悪といえます。人は、同時におごり高ぶります。態度には見せないかもしれませんが、「自分が正しい。他の人は間違っている」と思っているのです。

自分に対して敵意をもっているような人が、何らかの不幸に見舞われたら、内心ニヤニヤして喜ぶようなことはないでしょうか。こんな闇の部分が、わたしたち人間にはあります。

罪とは、国家の法律に反する行為だけではありません。人の罪は、何かをやるやらないといった行動だけに限りません。罪の大元は、わたしたちの心に宿っているのです。人間の愚かさによる様々な行い、思い、感情すべてを、聖書は罪と定義付けています。

自分自身を真正面から正直に観察すれば、「自分は善人ではないけれど、悪人でもない」などと決して言えないのではないでしょうか。むしろ、多くの悪の思いが自分の心に宿っているのに気づかされます。この邪悪な罪ゆえに、人間社会は狂っているのです。

自分が罪深い人間であると認識したとき

国の法律を犯す罪は、刑法で裁かれます。しかし、神に対する罪は、神ご自身によって裁かれます。私たちが、創造主なる神から離れ生きているとき、私たちは罪のなかに生きているのです。人は、所詮、自分中心にしか物事を見れません。360度の視点からは見えません。「悪は行わないけど、善も行わない」自己中心的な態度に罪の根っこがあります。私たち人間は、自分を正しいと考える盲目的視点で世界を見てます。その目で社会を観察します。その真逆で、劣等感や自己嫌悪という厄介な感情をもっている罪人です。

私たちは、自我の欲求という罪を解決できない罪人です。霊的な病人です。だから、私たちは主イエス様を必要としているのです。主イエス様は、いつも私たちに声をかけてくださっています。私のもとに来なさいと招いています。

主イエス様の呼びかけに、今すぐに応えてみましょう。この方の教えには、命の礎があります。素直に信じられますように、お祈り申し上げます。読者の皆様に、主の豊かな恵みと愛が宿りますように。

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