行き過ぎた聖書主義の問題点を取り上げ、牧師の責任を考えてみましょう。多くの方々が、聖書至上主義の被害にあっています。聖書は神のみことばです。神は、私たちが御心を理解できるように、人間の言語で書かれている聖書を与えてくれています。「聖書は誤りない神のことばである」という信仰から、聖書信仰という概念が生まれました。聖書信仰と言う概念が独り歩きして、極端な聖書至上主義がキリスト教界にはあるようです。結果的に、クリスチャンの間に混乱を招いてます。
行き過ぎた聖書主義がもたらす具体的な影響を考えてみましょう。たとえば、過度な文字通りの解釈が、信者の生活にどのように影響を与えるか、またその結果としてどのような誤解や対立が生じるかを見ていきます。聖書の特定の章や節が、信者の行動や思考を制限することがあるのです。具体的には、特定の経済的、社会的状況において聖書の教えをどのように適用すべきかという問いが生じます。
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行き過ぎた聖書主義 ≠ 神を信じること
このように、聖書主義の理解は、私たちの神との関係に影響を与えるのです。私たちは聖書主義に従って生きることが求められています。同時に、問題点も考慮すべきです。
聖書は、神の御心を理解するための道具とも言えます。道具というと、不謹慎と思われる方はいるかもしれませんが、手段といってもいいでしょう。聖書を悪用する人もいます。
聖書は、私たちが神との関係を築くための重要な手段です。しかし、聖書を単なる教義や規則の集まりとして捉えると、神との個人的な関係を見失う危険性があります。信者は、聖書を通じて神の愛や恵みを体験し、日常生活の中で信仰をどのように実践するかを考えることが重要です。

その最たる例が悪魔です。悪魔であるサタンは、イエス・キリストを誘惑したとき、聖書を引用しました。
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。マタ4章5節ー7節 聖書協会
悪魔は詩篇91篇11節―12節を引用して、キリストを誘惑しました。このように、神の御心に反して聖書は悪用されてしまうことがあります。聖書は、神のみことばですが、神ご自身ではありません。聖書至上主義の問題は、聖書を神ご自身のように扱うことにあるのです。キリスト者は、聖書を神の御心通りに解釈し、正しく適用する必要があります。
聖書を神のみことばとして信じることは、天の神を信じることから出ています。しかし、天の神を信じることは、聖書を信じることはイコールではありません。古代ユダヤ教の律法学者やパリサイ派の人々は、神のみことばを神様のように扱って律法主義に陥ってしまいました。同じような過ちはすべきではないと思います。キリストが建てる教会の7つの特徴
牧師・説教者の責任
牧師が聖書を解釈する際、教会の文化や伝統が影響を与えることがあります。このため、同じ聖書の言葉でも異なる解釈が生まれることがあります。たとえば、古代の文化に根ざした解釈が現代の信者にどのように影響を与えるかを考察することが重要です。また、地域の特性や社会的な背景も解釈に影響を与える要因です。

罪人である牧師が、他の罪人に神の道を教えます。実際、これくらい危ういことはありません。しかし、牧師がその危うさを認識しなかったら、どんな教会になるのでしょうか。「牧師は神に召され啓示を受けているのだから、間違うことはない」というのであれば、なぜプロテスタント教派の間にこれほど分派分裂はあるのでしょうか。他方、ローマ・カトリック教会は「われこそが正しい唯一の教会である」と主張しているのです。
教会のリーダーは、その言葉や行動が信者に与える影響を常に考慮する必要があります。たとえば、教会の方針や活動が信者に与える影響を具体的に分析し、適切な指導や支援を行うことが求められます。また、信者が直面する現実的な問題に対して、聖書の教えをどのように適用すべきかを一緒に考える姿勢が重要です。
牧師が、聖書をどのように解釈してどのよう使うかは、非常におおきな問題です。教会メンバーの霊的な命が、牧師の一言によって左右されているからです。牧師が聖書を引用するとき、教会の人々を主イエスの名によってしばりつけている事例があります。
意図的に聖書を悪用する牧師先生はいないですが、誤った解釈をして真理の言葉を歪曲して伝えている可能性は十二分にあります。この記事を書いている管理人も含めてです。だからこそ、牧師と呼ばれる人は、神の御前でも会衆の前でもへりくだる必要があります。
- 外部リンク 悩めるクリスチャンの日記
牧師が聖書から説教するとき、牧師には明らかな責任があります。牧師は、聖書に啓示されている真理の言葉を、正しく解き明かす責任があります。実際に、教会のリーダーである牧師には、一般信者よりも重い責任が課せられています。裁きの日には、より厳しい裁きの座に立たなければなりません。そのハードルは、普通の信者の方々より高いのです。なぜなら、リーダーは神の恵みの導き手にもなれますが、躓きの原因にもなれるからです。

聞く人たちである教会の責任 聞いた言葉を吟味する
説教壇に立っている人が聖書を引用していれば、正しい事を言っていると鵜呑みにしてしまうことはないでしょうか。これは大きな落とし穴です。
教会の信者は、自らの信仰を深めるために、聖書を自分自身で研究することが不可欠です。たとえば、聖書の特定の書をグループで学び合うことや、個人で黙想することによって、より深い理解を得ることができます。これにより、信者は自分の信仰をより強固なものにすることができるでしょう。
牧師が言ったことを何の疑問もなく素直に受け入れるクリスチャンは、カルト的教会では褒められるでしょう。しかし、牧師の言葉であっても吟味されるべきではないでしょうか。どんなに偉い先生であっても、人間に過ぎません。間違いは犯します。だから、個々のクリスチャンは、神に対して正直に自分と向き合い、聖書を学ぶ必要があるのです。
裁きの日に、「この大先生が言っていましたから信じていました」という言い訳は、主イエス・キリストの御前では通用しないでしょう。主よ、主よと呼ぶ者がすべて救われるわけではないからです。一人一人が、神の御言葉を吟味し自分自身を吟味して、神と向き合う必要があります。耳の痛い言葉でも聞く必要があります。気分を良くするだけの礼拝メッセージだけ聞いているのであれば、要注意です。2テモテ4章2-4節
上記の聖句では、信者たちが、真理から離れてしまう過程が説明されています。聖書を正しく理解する責任は、牧師だけにあるのではありません。個々のクリスチャンが、真理を理解することが求められているのです。
最後に、聖書の重要性を再確認するために、歴史的な背景や文脈を考慮することも大切です。聖書は時代や文化の影響を受けながら成り立っているため、理解を深めるためには、各書の成立背景や目的を知ることが求められます。例えば、パウロの手紙が書かれた背景や、その内容が当時の信者にどのように影響を与えたかを学ぶことは、現代の信者にとっても貴重な学びとなるでしょう。
このように、聖書を神様のみことばとして信じることの重要さを確認しつつ、聖書を神と同等と扱う危険性について再確認しましょう。
結論
以上、行き過ぎた聖書主義の問題点、牧師の役割、信者の責任について考察しました。聖書は神の御言葉であり、私たち一人一人がそれを正しく理解し実践する責任があります。今日も、主イエス・キリストの愛によって満たされ、聖書を通じて真理を求め続けることが大切です。私たちが共に成長し、信仰を深めていくために、聖書を大切にし、正しい解釈を心がけていくことが求められています。聖書主義を通じて、多くの人々が神の愛を知り、共に歩んでいけることを願っています。
読者の皆様の上に、主イエス・キリストの尊い愛が注がれますように。
