コンテンツへスキップ 投稿日:2026年1月18日/更新日:2026年1月19日
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アモス書の解説-物質主義の現代人への裁き

アモス書が書かれた時代背景や概要に触れ、次に、各章を概観していきます。最後に、物質主義に生きる現代人に、アモス書が何を問いかけているのかを考察します。

アモス書の時代背景

アモス書は、紀元前760年ごろに執筆されたと考えられている。ホセア書と同時期に執筆されており、著者はアモスとされている。アモスは南ユダのテコア出身であり、羊飼いをしていたとされる(1:1)。祭司など特別な立場にある者ではなく、ごくごく平凡な者であった。しかし彼は、北イスラエル王国および周辺諸国、イスラエルの民に対する神の裁きと回復の預言を語ることになるのである。アモスは、父なる神様の召しによって立てられた預言者であった。

当時の北イスラエル王国は、ヤロブアム二世によって統治され、平和であり、また、経済的にも非常に栄えていた。北イスラエルの歴史上、最も栄えていたとされる。

なぜ、最も栄えた時代に預言が必要だったのだろうか。それは、北イスラエル王国が、経済的な繁栄と反比例するかのように、霊的に堕落してしまっていたからである。また、道徳的にも腐敗してしまっていた。このような状況下にあったが故に、神はアモスを通して、裁きの預言を語られたのである。

近隣諸国の罪 

アモス書の内容に入っていきたい。1章から順に述べていく。1章では、北イスラエル王国の近隣諸国に対する裁きが語られている。具体的には、ダマスコ、ガザ、ツロ、エドム、アンモンである。

続く2章では、同じく近隣諸国であるモアブへの裁きの預言が語られている。その後、アモスは、近隣諸国のみならず、南ユダ及び北イスラエルへの裁きにも言及している。裁きが異邦人のみならず、神の民であるイスラエルの人々にも及ぶことが預言されている点は注目に値する。

1章、2章に出てくる近隣諸国は、地理的には南ユダ及び北イスラエルを取り囲むように建国されている。近隣諸国に向けられていた裁きが、イスラエルの民にも向けられるという点は、神がイスラエルの民のみならず、全ての民の神であるということを示唆している。また、諸外国からイスラエルへの裁きの預言という流れは、イスラエルの罪深さを強調する表現であると考えられる。

現代に生きる私たちキリスト者は、この点から学ばなければならない。救われているからと言って霊的な盲目状態に陥ることを避け、常に主権者である主を仰ぎ見、悔い改め、救いの恵み、十字架の出来事の本質について受け止める必要がある。

アモス書の解説

イスラエルの罪

罪深さを表現する文学的表現

本章では、特徴的な表現が使用されている。「イスラエルの三つの背き、四つの罪」という表現である。この表現はへブル文学において多く見られる表現で、同様の例として、ヨブ記5章19節、箴言30章21節などが挙げられる。この表現について、特に数字に関しては様々解釈があるとされているが、一般的には「多数」であることの表現と解釈されることが多い。近隣諸国やイスラエルの民に罪深さの強調表現と言えよう。

イスラエルの民の2つの罪 

授業テキストによれば、イスラエルの民は、2つの罪を犯している。1つは、貧しい者に手を差し伸べないばかりか、金品を得て自分たちの至福を肥やしていたことである。(2:6~8)。2つ目は、イスラエルの民の霊的盲目である。イスラエルの民は、神様のこれまでのお働き、憐れみを忘れてしまっていたのである。(2:9~11)

イスラエルの民は、神様の助けと導きによりエジプトを脱出し、40年の放浪の後、約束の地カナンの地へと足を踏み入れることが出来た。40年もの間、神はイスラエルの民にマナを与え続け、常に共におられ、民を守り導いてくださった。その神の憐れみ、愛を、イスラエルの民は忘れてしまったのである。このことが、神の怒りを買うこととなった。

イスラエルの民の背信

続く3章にも、イスラエルの民の背信が語られている。イスラエルの民は、父なる神様を忘れるだけではなく、ベテルの祭壇にいけにえを捧げるなど、偶像崇拝の罪も犯していた。列王記Ⅰ12章28、29を見ると、当時、北イスラエルの王だったヤロブアム二世が、金の子牛像を創った上に、民に対して、金の子牛像を拝むように語る場面が描かれている。

このような背信を重ねる民に対して、父なる神様は3章14、15節で「ベテルの祭壇を罰する」とする裁きを宣告された。

神の嘆き

続く4章では、父なる神様の嘆きが記されている。4章4、5節を見ると、神はイスラエルの民を突き放していることがうかがえる。「好きなようにしろ」と言わんばかりの言葉である。しかし、神様はイスラエルの民に慈愛も示された。複数回に渡り、民に悔い改めのチャンスを与えたのである。

しかしそれでも、イスラエルの民が悔い改めることはなかった。(4:6~11)。そして父なる神様は、イスラエルの民に「あなたの神に会う備えをせよ」と語りかけるのである。この語りかけは、4章のみならず、アモス書の主要テーマの1つと言っても過言ではない。この言葉は、イスラエルの民への「最終警告」と解釈できるのではないだろうか。

 新約聖書ヘブライ人への手紙12章7~11節には、試練の意味が記されている。試練を通して、人は悔い改めへと導かれ、神様の子どもとして、主イエス様のような者へと変えられていく。試練や誘惑に陥ることはキリスト者であろうと避けられない。故に、霊の目をいつも開き、主にその都度、立ち返る必要があろう。4章13節にある主なる神様の主権性、創造主としての神様の側面も捉えておく必要がある。

憐れみ深い神の招き

神の裁きと警告

5章1~3節においても、裁きが予告されておる。しかし父なる神様は、なおもイスラエルの民を諦めてはおられなかった。4節以降、「悔い改めてほしい」という神様の想いが語られている。「わたしを求めて生きよ」(5:4)、「主を求めて生きよ」(5:6)、「善を求めよ、悪を求めるな」(5:14)等の言葉である。しかし、その想いは当時のイスラエルの民には届くことがなかった。

主の日が来る

5章18~20節に「主の日」という言葉が出てくる。これは裁きの到来の日、と解釈できよう。父なる神様を心から信じる者にとって、主の日は光であり、希望の日である。しかし、イスラエルの民にとっては全く逆で、「暗闇」(5:20)の日となることが告げられている。

5章21~24節において、父なる神様は、信仰が伴わない儀礼やいけにえは受け入れないことが記されている。形だけ、上辺だけの儀式や礼拝を神は喜ばれない。神様は、心をこそご覧になるお方だからである。そして5章27節では、イスラエルの民がダマスコ(アッシリア)に捕囚されることがアモスによって語られたのだ。

6章では、捕囚について記されている。特に父なる神様は、傲慢で独善的な民の指導者たちに対して厳しく臨まれている。6章3節に「あなたがたは、わざわいの日を遠ざけているつもりで、暴虐の時代を近づけている」と書かれている。

イスラエルの傲慢な心

新聖書注解によると、この言葉は、「繁栄と拡大をあたかも自分たちだけの力によるものと傲慢にも思い込んでいる首長たち」に語られている。この首長たちこそ、わざわいの日を遠ざけているものであり、彼らは「破滅の日を嘲笑する者」、「わざわいの日については考えもしない者」なのである。(新聖書注解 旧約4 P530‐531より引用)。

 6章13,14節には、「ロ・ダバル」「カルナイム」という言葉が出てくる。これらは、かつてイスラエルが領土として勝ち取った町の名前である。授業テキストによると、イスラエルの民はこの領土を誇りとしていた。本来であれば「誇るのなら主を誇る」ことが望まれているにもかかわらず、イスラエルの民は財産や土地など、地上のものを誇りとしてしまっていたのである。

イナゴがイスラエルを食い尽くす

7章には、アモスがみた幻について記されている。これまでの章とは趣きがやや異なる。父なる神様は、アモスに3つのことを示した。「イナゴがイスラエルを食い尽くす」(7:1~3)、「主の火が注がれる」(同4~6)、「下げ振り」(同7~9)の3つである。これはいずれも、イスラエルに対する神様の裁きを指していると言えよう。

アモスは、イナゴの裁き、主の火による裁きが示された際に、神様に赦しと慈悲を願っている。そして神は、アモスの願いを聞き入れ、裁きを2度、改めている。父なる神様は無慈悲な方ではなく、私たち人間に赦しと恵みを示される方なのである。

しかし、父なる神様は義なるお方でもある。罪を見逃す方ではない。神は、イスラエルの民に、下げ振りをもって裁きを与えることを語られている。新聖書注解によると、下げ振りは、「重りなわ」とも訳される言葉で、物の垂直をはかる道具とされている。父なる神様は、イスラエルの罪を正確に測られ、「わたしはもう二度と彼らを見過ごさない」(7:8)と、裁きを下されることをお決めになられたのである。

7章10節には、祭司アマツヤが登場する。彼はイスラエル王国の祭司であったとされる。ベテルと呼ばれる「王の聖所」、「王の宮殿」でイスラエルの王に仕えていたとされる人物である。アマツヤはヨエルに、「ベテルでは二度と預言するな」と警告している(7:13)。しかしアモスは臆することなく、「今、主の言葉を聞け」と語る(同16)。そして、祭司アマツヤとイスラエルの民に対する裁きを語るのである。

霊的な飢饉

8章では、父なる神様が、イスラエルに対して霊的な飢饉を起こすことが記されている。(8:11)。1、2節に出てくる夏のくだものという言葉は、原語では「終わり」を意味する言葉と同じアルファベットが使用されている。おそらく、語呂合わせなのではないかと推測される。

2節の「わたしの民イスラエルに終わりが来た。わたしは二度と彼らを見過ごさない」とある。創造主であり全てを支配しておられる父なる神様の言葉であることを加味すると、この言葉は、イスラエルの民にとっては絶望以外の何物でもない。

イスラエルの民の回復

9章でも父なる神様の裁きの預言が語られ続ける。しかし、11節からは一転して、イスラエルの民の回復が預言される。9章14節には、「わたしは、わたしの民イスラエルを回復させる」という神の約束が記されている。北イスラエル王国と南ユダ王国は、預言通りに滅びることとなった。そして、北イスラエルの民の多くはアッシリアへ、南ユダの人々の多くはバビロンへ捕囚された。しかし、父なる神様はイスラエルの民を見捨ててはいなかったのである。捕囚と、そして捕囚からの帰還という出来事を通して、父なる神様は、7章14節の約束を成就された。

私は、この約束には、もう1つの側面があると考える。「イスラエルの民の回復」という出来事は、単に捕囚からの解放を示すのみではなく、イエス様の十字架上での死と復活を信じるキリスト者に、永遠の命、すなわち父なる神様との真の和解がもたらされる、という救いにもつながっているのではないだろうか。また、神が、背信を重ね続けるイスラエルの民を「わたしの民」と呼んでおられる点からも、神様の、イスラエルの民への熱い想いを読み取ることが出来る。

現代に生きるキリスト者へのメッセージ

アモス書は、現代に生きるキリスト者に2つのこと問いかけていると考える。

アモス書が語る現代人への問いかけ 1

1つは、私たちが神様を礼拝する際の心備え、である。多くのキリスト者は、日曜日に教会で礼拝をお捧げしている。また、日常を歩む中で祈りを捧げる。しかし、礼拝や祈りが形式的なものとなり、そこに悔い改めの心が伴わなければ、それは単なる自己満足となってしまう。形だけの礼拝は、神様が求めておられる真の礼拝にはならないのではないだろうか。

「礼拝を捧げている自分」「祈りを捧げる自分」に酔うのではなく、真の意味で義なるお方である父なる神様に目を、心を注ぐことが、キリスト者には求められよう。神様が求めておられるのは上辺だけの行いや儀式ではなく、砕かれた魂であり、へりくだった心なのである。

アモス書が語る現代人への問いかけ 2

もう1つは、父なる神様の憐れみ深さである。キリスト者といえども、本質的には旧約時代のイスラエルの民と何ら変わらない。私たちはみな、「罪赦された罪人」に過ぎないのである。滅ぼされなければならなかった私たちが、その滅びに遭わず、神様の子とされるという奇跡は、ただただ父なる神様の憐れみ深い御業の故に起こったことであると言える。

私たち人間の罪の赦しは、御子イエス様の十字架上での死と復活を通してすべての人間に与えられている。この救いの恵みを、キリスト者は軽視すべきではない。アモス書からも読み取れる神の義、そして憐れみ深さを、感謝と悔い改めをもって都度受け取る姿勢こそ、父なる神様が願っておられえるキリスト者の姿であろう。

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