ヨエル書の概要や特徴、時代背景についてまとめ、次に、各章についてのテーマをまとめてみます。そして最後に、yヨエル書 において鍵となる聖句を通して、現代に生きる私たちに対してどのようなメッセージが語られているのかを考えます。すべて聖句は新共同訳から引用している。聖書協会
ヨエル書の時代背景
まず初めに、ヨエル書が書かれた時代背景について述べる。ヨエル書が執筆された時期については特定されていない。南ユダ王国に関する預言が記されていることから、紀元前8世紀ごろに書かれた預言書とする見方もあるが、一般的には執筆年代は不明である。ちなみに、ヨエルとは「主こそ神である」という意味である。エルは神を指し、ヨはエホバを指している。年代不明の預言書としては、ヨエル書の他にオバデヤ書が挙げられる。
「エホバ」とは、神に対する固有名詞である。古代イスラエル人たちは、神の名をみだりに唱えることを避けるために、神を表す「ヤハウェ」という言葉を使わずに、「アドナイ」という言葉を使用していた。アドナイとは、ヘブライ語で「主」という意味である。このアドナイという言葉がエホバという発音になり、神を指す言葉として定着した。
ヨエル書の特徴
次に、ヨエル書の特徴について述べる。ヨエル書は、新共同訳と新改訳版では、章や節の構成が異なっている。
新共同訳や聖書協会共同訳では1章1節から4章21節であるが、新改訳版では3章21節までとなっている。これは、元となった聖書の言語の違いから来ている。 新共同訳や聖書協会共同訳は、ギリシャ語やラテン語の旧約聖書をもとにしている一方で、新改訳版はヘブル語訳聖書の章と節をもとにしている。複数人で聖書を読む際は、訳を統一することで混乱を避けることが出来るが、ヨエル書が書かれた背景を知る、という意味では、違う訳を使用すると違いが明確になり、より深い学びを得ることができよう。
ヨエル書の中身に入っていきたい。ヨエル書は3章で構成されているが、各章それぞれに異なるテーマについて記されている。章ごとに分けて見ていきたい。

1章 バッタの大群と荒廃の預言
まず1章について。1章では、南ユダへの預言が記されている。ばったの大群による甚大な被害と荒廃の預言である。この予言は、長老たち(1:2)や祭司たち(1:13)など、南ユダの霊的指導者たちに対して語られている点を抑えておきたい。南ユダ王国の民は、アシュラ増やバアルの神など、異教の神を礼拝していた。偶像崇拝である。また、南ユダは、アッシリアやバビロニアなどの敵国と対峙する際に、エジプトと同盟を結んだ。この点が、神の目に悪とされたのである。神に頼ることなく、他国との同盟という人間的な思惑に陥ったユダ王国の行動を、神は背信とみなしたのである。この南ユダの霊的指導者たちの責任を、神は指摘されておられるのである。
1:15に、「主の日」という言葉が出てくる。主の日とは神の裁きを指しており、ばったによる荒廃や干ばつが単なる自然災害ではなく、神による裁きであることがこの聖句から読み取れよう。また、あらゆる食物が枯れ(1:10-12)、人の喜びが経たれる(1:12、16)等の表現から、神の怒りの深さを見ることが出来る。神様の義なる側面を如実に表している個所と言えるのではないだろうか。この神の怒り、裁きを預言したヨエルは、南ユダの人々に悔い改めを迫ったのである。
2章 神の慈しみ
1章のばったの大群を、2章では神ご自身の軍勢と表現している(2:11)。神の力の前に人間はなすすべがなく、実に無力であることが読み取れる。神の力はそれほどに強大であり、人間は神の怒りに耐えられる存在ではないのである(2:12)
しかしヨエルの預言は、神の裁きの到来にとどまらなかった。ヨエルは、神の慈しみ深さをも予言したのである。ヨエルは、神が南ユダの人々を愛し、悔い改めて神に立ち帰ることを願っておられることを語る(2:12‐13)。特に2:13で描かれている神のご性質に注目したい。神は、「恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」方であることが記されている。
ヤコブの手紙1:19~21には、「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」とある。この命令は、ヨエル書に描かれている、新旧訳に共通する神のご性質に由来するものではないかと考える。新約の主イエス様の慈しみ深さと同じ神のご性質を、旧約の神様は、南ユダの人々に対して示しておられるのである。
神が裁きを思い直す可能性
ヨエル2:14には、神が裁きを思い直す可能性について言及されている。同様のことが出エジプト記32章にも描かれている。イスラエルの民の堕落を嘆いた神は、民を滅ぼし尽くすことをモーセに告げる(出エジプト32:9)。そんな神に対して、モーセは裁きを思い留まるように願い(同10~13節)、その結果、神は裁きを思い直された(同14節)のである。
私たちは旧約聖書に神の厳しさ、恐ろしさを見出しがちである。確かに神は義なる方であり、罪を罪のまま放置されることはなさらない。しかし、神の義にのみ注目してしまうことは、恵みを取りこぼしてしまうことにもなりかねない。旧約聖書にも、神の慈悲深さ、恵み深さを読み取ることが出来るという点は、全てのキリスト者が持つべき視点であるのではないだろうか。

3章 聖霊降誕の約束
続く3章では、1章で述べられた神の裁きの到来と、神の慈しみ、そして、聖霊降誕の約束が記されている。
ヨエル書に戻る。3章には、神の憐れみ深さが具体性をもって語られている。聖霊降誕の預言である。ヨエルは、主なる神の預言として、すべての肉なる者に聖霊を注ぐと語る。奴隷にも聖霊が降るという記述がある。古代イスラエル社会において、女性や羊飼い、奴隷は社会的な立場が低かった。そのような立場の者に聖霊にも聖霊を下すというのである。神による救いが、祭司など選ばれた者のみではなく、文字通りすべての人間に与えられることを預言していると言えよう。
主の大いなる恐るべき日は、前述の「主の日」と同義である。その日、太陽は闇に、月は血に変わるとある。これは強調表現である。本来、太陽が闇に覆われることはなく、月が血に変わるという現象は起こりえない。起こりえないことが起こることを預言しているこの個所は、裁きがこの地上の出来事ではなく、神の御業であることを暗示しているのではないかと考える。このような裁きが訪れる際にも、主の名を呼び求める者は皆、救われると、ヨエルは語る。
コリント人への手紙第一12章3節では、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主です』とは言えないのです」とある。ヨエル書における「主の名を呼び求める」という行為は神への立ち帰り、悔い改めを示している。そして、聖霊を受ける者は救われる、とある。以上のことから、ヨエル書2:29における「救われるもの」とは、悔い改めて聖霊を受けたもの、と解釈できるのではないだろうか。
4章 諸国民に対する神の裁き
ヨエル書4章に進みたい。諸国民に対する裁きと、南ユダに対する救いの預言が記されている。
裁きの後、神は南ユダの回復・繁栄を約束すると同時に、諸国の民への裁きを語られる(3:1~2)そして、最後には、南ユダの回復を約束してくださる(3:20、21)。ヨエル書は「主はシオンに住まわれる」という言葉で締めくくられている。背信行為により裁きを受け、荒廃した民の中に、それでもなお、主は住んでくださるとヨエルは予言している。この点にも、神の恵み深さを読み取ることが出来る。以上でヨエル書の各章のテーマである。
まとめ 現代人へのメッセージ
1.悔い改めることの大切さ
最後に、ヨエル書が、現代に生きるキリスト者に対してどのようなメッセージを語っているのか、という点に着目したい。まず1つ目は、悔い改めることの大切さである。
ヨエル書2:12には「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで」とある。この言葉は南ユダ王国の民に語られた言葉であると同時に、主イエスを救い主と信じているキリスト者に対しても語られている言葉であると考える。
イエス様は「心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と命令されている。この言葉は旧約聖書の申命記6章からの引用である。これらの個所から、主なる神を第一とすることは、旧約から新約を通して貫かれている真理であり、神が一貫して私たちに求めておられることであると言える。
肉なる人間の内には罪が内在している。罪の力は強大で、常に私たちを神から引き離そうとする。そんな罪の誘惑に屈し、意識・無意識を問わず、神様から離れてしまうのが私たち人間なのである。だからこそ、私たちは常に悔い改め、神様こそ主権者であり、私たちの罪を赦し、愛しておられる方であることを都度、思い出す必要がある。神への立ちかえりの積み重ねこそ、私たちキリスト者の人生であると言える。
2.聖霊降誕の預言
二つ目のポイントは、聖霊である。「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。」この個所で「霊」とされているのは、聖霊と理解して差し支えないと考える。聖霊が降ることにより、老若男女全ての人を通して、神の力が表されるようになると預言されている。
聖霊降誕は、新約聖書でも描かれている。使徒の働き1:8で、イエス様は弟子たちに対してこのように語られている。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」この言葉は、使徒2章で聖霊降誕の出来事を発端に成就することになる。その後、福音がユダヤ地方のみならず異邦の地、果てはエルサレムに至るまでのべ伝わることになったのである。
使徒2:16、17には、ヨエル書の預言の言葉が引用されている。イエス様がお生まれになるはるか前の時代においても聖霊降誕についての預言がされており、しかもその預言がイエス様の言葉を通して、いわゆる新約聖書の時代に成就した点からも、旧訳・新約の神の一貫性を見ることが出来よう。
3.キリストの十字架によって
父なる神様は主イエス様の十字架と復活の出来事により、私たちの罪を赦してくださった。罪赦された私たちが、どう生きていくことが神に喜ばれる生き方なのだろうか。悔い改め、神に立ち帰った後、私たちはどうするべきであろうか。私は、聖霊の力により頼み、ただただ神に服従することが求められるのではないかと考える。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。ガラテヤ書2:20 聖書協会
自分の力で神に服従するのではなく、自分の力で福音を伝えるのでもなく、自分自身の存在、自らの人生そのものを神に捧げることこそ、神様がキリスト者に求められていることではないだろうか。聖霊が降った息子や娘が預言し、老人や青年が夢や幻、すなわち神のビジョンを見ることになったように、また、新約聖書に登場する弟子たちが、福音をのべ伝える者とされたように、私たちも、聖霊によって日々作り変えられ、主イエス様のような者へと変えられていくことを信じていきたい。
聖霊により、神に、人に仕え、福音をのべ伝える者とされていくこと、そのことを信じることこそ、キリスト者がヨエル書を通して受け取ることのできるメッセージなのではないだろうか。 日々の生活の中で繰り返し祈り、主に立ち帰り、神様に愛されていることを思い出しつつ、神に信頼して全てを委ね、平安の内に歩んでいきたいものである。
