マタイ5章4節「悲しむ者は幸いです。その人は慰められます」と書かれています。悲しむ者の信仰という観点において、この聖句は非常に重要な意味をもっています。私たち人間は、一生のうちに多くの悲しみを経験します。自然災害や不慮の事故で、命を落とす人たちがいます。残された遺族の悲しみは、計り知れません。
悲しむ者の信仰
この様なとき、悲しみは誰によって慰めされるのでしょうか。多くの友人や親類の方々が、慰めの言葉をかけるでしょう。仏教の葬式では、「御仏に委ねなさい」といわれます。仏像に悲しみを打ち明けている人も、神様の慰めを受けるのでしょうか。主イエス・キリストの教えの真意は、どこにあるのでしょうか。悲しむ者は幸いの意味は何でしょうか。
その悲しみは、神に向けられるべき
人間のニーズを軸にこの聖句を解釈すると、次のような解釈になります。「この聖句を素直に読みなさい。天の神様は、悲しんでいる人間を誰でも憐れみ慰めてくれている。だから、何を信じていてもそれは大きな問題ではない。憐み深い神様は、信仰の違いなど小さなことにこだわるお方でない。」この解釈によれば、周りにいる人たちに悲しみと嘆きを打ち明ける人は、慰めらるのです。
主イエス様の真意は、このような解釈にあるのでしょうか。その悲しみは、誰に向けられるべきでしょうか。神様を軸に「悲しむ者は幸いです。その人は慰めらえます」を解釈すべきだと管理人は思います。
すべての悲しみを神に打ち明けること、これが主イエス様の御心です。私たちを創造してくださった神様は、私たちのすべてをしっています。悲しみも苦しみもご存知です。神様は、悲しむ私たちを慰めてくださいます。自分が愛する人が死んで召された時、私たちはもちろん天のお父様に嘆きと悲しみの祈りをささげます。死は例外なく、人生の中で一番悲しい出来事だからです。しかし、主イエス様がこの聖句で教えている悲しみとは、死や不幸ゆえの悲しみだけではありません。
その悲しみは、自分の罪深さを知る心の嘆き
ヤコブ4章7-10節を読んでみましょう。私たち人間は、悪魔によって支配されている世の中で生きています。日々、その悪魔を離れて神に近づきなさいと教えられています。私たちが神に近づくとき、私たちの心に変化が起こります。聖なる神の御前で、自分自身をまっすぐに見るときに、自分の罪深さを知ります。
神の光のスポットライトが、自分の心の奥底にある罪深さを明らかにします。自分の罪深い自己中心的な心が、はっきりと示されます。喜び笑っていた人も、自分の罪深さを知るとき悲しみ嘆きます。これは悔い改めの心です。
マタイ5章4節で主イエス様が教える悲しむ者とは、死や不幸で悲しんでいる人々を指しているのではありません。自分の罪深さを嘆き悲しんでいる人々は、神の慰めを受けると教えているのです。

預言者イザヤの例
自分の罪深さに嘆き悲しんだ預言者イザヤの言葉、イザヤ6章1‐7節を読んでみましょう。
預言者イザヤは、神様の聖なる御座の幻を見た時、自分の心の闇に光が当てられ自分の罪深さを知りました。そして、彼は「わたしは汚れた唇の者」と告白しました。自分の罪深さに対する嘆きであり悲しみだったのです。しかし憐れみ深い神様は、イザヤを清め慰めました。
私たちも、イザヤと同じように聖なる神の御前に立つとき、心が変えられます。自分の罪を悲しみ嘆きます。イザヤが罪ゆえに「滅ぼされる」と感じたほど、私たちは罪深い存在なのです。そんな私たちを、憐れみ深い神様は慰めてくださると約束してくださっています。
憐れみ深い神は、罪に嘆き悲しむ者を慰めてくださいます。だから、日々、悪魔から離れ聖なる神様に近づきましょう。神様の祝福を受けると約束されています。読者の皆様の上に、神様の恵みが宿りますように。

あおいくま、大切ですね。
コメントありがとうございます。「聖書に記述のない質問ですが、ヤコブの息子のヨセフは何故悲惨な目にあっても腐らずにいられたと思いますか?境遇としては神様を恨んでもしかないところを通過してると思うのですが。」先日、いただいた疑問点についてですが、、、、。その他、理不尽な扱いを受けた人たち、試練にあった人たちは、ダビデ、エリヤ、ダニエル、ペテロ、パウロ、もちろん主イエス様がいますが、みんな現実を受け入れる信仰をもっていたと思います。自分ではどうすることも出来ないことを受け入れる信仰です。
ちなみに、クリスチャンではない人も、頼る対象が唯一の神様ではありませんが、忍耐強く対処します。物まねタレントのコロッケが、母から受けた座右の銘が「あおいくま」だそうです。あせるな、おこるな、いばるな、くさるな、まけるな。彼の家族は極貧だったそうですが、母親がいつもこの言葉を子供たちに言い聞かせていたと。松下幸之助さんも同じようなことを言っていました。残念ながら、この人たちは神様を信じていません。
クリスチャンは唯一の神様、天の神様に希望を持っています。そして主イエス様に希望を持っています。人間が出来ることはたくさんありますが、最終的に主イエス様が人類を裁くと知っているから、何事にも忍耐をもって対処しようとするのではないでしょうか。これからの時代、クリスチャンにとっては、もっともっと大変な時代になると思います。きっと試練の時代が来ると思います。
悲しむ者とは自らの罪を嘆き悲しむ者なんですね。
罪を見せつけられたとき、本当に嘆き悲しまざる得ませんが、そんな私たちを神様は慰めて下さること、本当に感謝です。
何よりこの罪が主イエス・キリストの十字架の贖いによって赦されたことを感謝します。
自分ではどうすることも出来ない罪の問題に悲しむとき主の犠牲が本当に希望になり慰めになりますね。
分かりやすい文章に感謝します🌿