信仰の違い、意見の違いによって、キリスト者といえども論争している人たちがいます。これは人を躓かせる元です。人を躓かせる意味について今日はいっしょに考えてみましょう。
下の図は、キリスト者がこの世で生きている間、キリスト者の立ち位置、キリスト者がどのように成長するかを説明しています。
キリスト者が生きる時、2つの命令によって生きています。一つは、天のお父さまである神様を、心を尽くし愛し、精神を尽くし愛し、知性を尽くし愛し、力を尽くし愛します。つまり、人間がもっているすべてをもって、神様を愛しなさいと教えられています。2つ目は、自分を愛するように、隣人を愛しなさいと命令されています。つまり、人間は、この2つの命令に従って生きて、成長していくのです。
人間は、縦の関係、つまり神様である主イエス・キリストとの関係をとおして成長します。しかし、それだけでは、人間は自分のために生きている自己中心的な存在になってしまいます。人間は、横の関係 つまり人間関係をとおして成長するのです。箴言27章17節「鉄は鉄を磨く、人は人を磨く」と書かれています。人間はお互いに助け合いながら、切磋琢磨しながら成長していくのです。
今日の礼拝メッセージのテーマ、「人に躓きを与えてはいけない」というのも、キリスト者がお互いに成長していくために、とても大切です。
人に躓きを与えてはいけない
偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。
1コリント8章1‐13節 聖書協会
1世紀のローマ帝国では、偶像に献げられた肉が市場で売られていました。キリスト者も、市場でそれを買うことができたのです。偶像礼拝は、今でも日本をはじめ、いろいろな国で行われていますが、今日の礼拝メッセージは、偶像礼拝についてではありません。この聖句ではキリスト者の人間関係に関して、大変重要な原則が教えられています。
偶像にささげられた肉
偶像に霊的な力があるのでしょうか。まったくありません。また偶像にささげられた食べ物に、霊的な力があるのでしょうか。まったくありません。
偶像にささげられた物を食べても、食べなくても、霊的な影響は100%ありません。しかし、誰もが、この真理を知っている訳ではないのです。
偶像礼拝に慣れ親しんだ人は、迷信的にまだ偶像の力を信じているかもしれません。「偶像の神々は、まだ霊的な力をもっている」と感じているかもしれません。
もしこのような人が、他のキリスト者が偶像礼拝の肉を食べているのを見たら、この人の信仰は弱まってしまうかもしれないのです。そんな事がお子ならないように、パウロは偶像礼拝の肉は食べないと言っています。
これは1世紀のローマ帝国の文化の中で起きている話です。しかし、私たち21世紀に生きるキリスト者にとっても、大切な教えが含まれています。
自分の信仰と他の人の信仰
この聖句は、人につまずきを与えるような言動はしてはいけないと教えています。しかし、ある人は、「自分の信仰には責任をもてるけど、他の人の信仰や失敗に責任はもてない」と言うかもしれません。
また他の人は、「自分の行動を見て、他の人がどう考えるかは、その人の勝手です。自分にはコントロールできません。私の信仰と彼の信仰は違うのです。なぜ私が彼の信仰のつまづきによって、裁かれないといけないのでしょうか。」と言うでしょう。
果たして、このような態度が、キリスト者がもつべき態度でしょうか。確かに、他の人がどのように考えるかは、私たちはコントロールできません。しかし、人に躓きを与えないようにするために、自分たちの言動はコントロールできます。
自分の言動が他の人に躓きを与える?
自分の言動が他の人に躓きを与えることは、21世紀においてもあります。この混迷した世の中では、むしろ多いのかもしれません。
ある人がネット上で、次のように言っていました。「ネット上で、キリスト者同士が論争しているのを見ると、キリスト教って本当なのかと疑ってしまう。キリスト教は愛を説いているのに、この人たちは愛を実践しているとはとても思えないのです。私の教会でも、同じように、熱くなって論争している人がいます。教会行くのをやめようかなと考えています。」
牧師、先生と呼ばれるような人たちの間で、このような論争が行われているのです。このような感想を持ってしまうのは、当然です。
何をやっても自由…
1コリント10章23-31節 聖書協会 を読んでみましょう。
キリスト者は何をやっても自由です。しかし、すべてが益になるわけではありません。すべてが人の徳を高めることになりません。ではどのように、自由を使うべきでしょうか。
自分の自由をどのように使うかは、常に人への思いやりをもって考えるべきでしょう。他の人の良心、他の人の信仰を考えて、行動しなさいと教えています。
キリスト者はみんな善意で人のために行動します。それでも善意がうまく伝わらない場合があります。そんな時、「私は善意でやっているんだから、他の人は受け入れるべきだ」というのでしょうか。成長している人はそんなことは言いません。
むしろ、他の人の良心、信仰に配慮することが大事なのです。他の人の信仰が霊的に育つように、考えるべきでしょう。自分だけの信仰の成長だけを考えていたら、キリスト者は成長できません。
なぜなら、私たちは、「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」と教えられているからです。お互いの言動によって、励まし合い、霊的に成長していくからです。
なぜなら、何を食べても、私たちは、主イエス様の名によって食べるからです。お互いにキリスト者として成長するために、食べるのではないでしょうか。
神の栄光のために…
結局のところ、私たちは、何を食べても、主イエス様の名によって食べます。この世にある食べ物は、すべて神様が私たちに与えてくださっているからです。たとえ、それが偶像にささげられた物でも同じです。
私たちが何をするにしても、神様の栄光のためにしているのではないでしょうか。この事を私たちは日々の生活で忘れてしまう事をないでしょうか。食事をしても、仕事をしていても、あるいは聖書を読んで友人と語り合っている時も、すべて神様の栄光のために行われているのです。
実は、それが私たちが成長する栄養素になっているのです。私たちが霊的な栄養を、神様から頂き時、神様の心は平安で満たされ、愛で満たされるでしょう。
キリストのからだという共同体の中で、一人一人は、自分の信仰に責任をもちます。なぜなら、一人一人が、自分の信仰について、主の御前で、申し開きをするからです。
同時に、他の人の信仰にも配慮します。なぜなら、自分自身を愛するように、他の人を愛するからです。他の人の信仰を配慮するのですから、自分と他の人の境界線を守ります。同時に、私たちは他の人を思いやり、配慮して、そしてお互いにお祈りに覚え、お互いに成長していくのです。