食べることは生きることでしょうか。御茶の水キリストの教会 野口良哉さんの寄稿です。
天高く馬肥ゆる秋、皆さん、いかがお過ごしでしょうか?秋も深まり、肉の糧、食べ物の美味しい季節となりました。食欲の秋ですね!
人はパンだけで生きるものではない
ところで、最初にお読みしました聖句の中で、イエス・キリストは、旧約聖書から引用して、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」とおっしゃっております。
よく見ますと、ここでは「人はパンだけで生きるのではな(い)」と部分否定されていますが、これはある意味、聖書も、イエス・キリストも、パン、すなわち、肉の糧や経済的な必要も私たち人間には欠かせないものであることを認めて下さっているということなのではないでしょうか?そう、主なる神様は私たちの心の糧、霊的な糧だけでなく、肉の糧、具体的な必要にも関心を持っていて下さるのです。
主イエス様の真意
その上で、イエス・キリストは、そのような肉の糧、パンだけでなく、「神の口から出る一つ一つのことば」、すなわち、心の糧、霊的な糧の必要性を説いておられるのではないでしょうか?
確かに、私たち人間は、どんなに肉の糧や経済的な状況に恵まれていたとしましても、心が貧しく、霊的・精神的に枯渇していましたなら、かなり辛いことになるのではないでしょうか?それに対しまして、仮に、生活に十分な余裕がなかったといたしましても、心が満たされ、霊的・精神的に安定していれば、それなりに豊かな人生を歩むことができるのではないでしょうか?
その意味において、私たちはパン、すなわち、肉の糧と共に、いや場合によってはそれ以上に、心の糧、霊的・精神な糧を大切にする必要があるのではないでしょうか?
旧約聖書によれば、荒野の放浪をしていたイスラエルの民は、神の御手による天からのパン「マナ」で養われました。そして、そんなマナは毎日、日ごとに集める必要があったのです。つまり、マナのはす消費期限はわずか一日でした。ある意味、聖書のみことばもそうなのではないでしょうか?昨日沢山読んだから今日はいいということではなく、その日その日に必要なみことば、霊的な糧があるということなのです。・・・「それは朝ごとに新しい。」(哀歌3章23節)