コンテンツへスキップ 投稿日:2023年9月7日/更新日:2024年11月30日

ローマ14章1-12節、信仰、意見の違い

先週の礼拝メッセージでは、神様の救いには2段階ある事を考えました。1つの救いは、現在、この世で生きている間に経験する救いです。主イエス・キリストを信じる信仰を通して、多くの恵みを受けています。

この救いは、主イエス・キリストが再臨する時に、私たちがイエス・キリストと出会う時、永遠の救いになるのです。私たちは、永遠の救いは経験していません。永遠の命をまだ受けていません。この永遠の救いは、刻一刻と近づいています。日々、主イエス・キリストの再臨の日に近いづいているのです。

―――――――――――――――――――――――

信仰の違い、意見の違いにどのように対処するか

今日は、信仰の違い、意見の違いにどのように対処するのかを、ご一緒に考えてみましょう。

最初にローマ14章1‐12節を読んでみましょう。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。 ローマ14章1-12節、聖書協会

この聖句は、ユダヤ教の背景から書かれています。ユダヤ教の教えの中には、清い食べ物と清くない食べ物の区別がありました。また宗教的な意味合いをもつ祭日があったのです。

クリスチャンになった後でも、この人たちは、このような習慣をもっていましたが、間違った慣習ではありません。このユダヤ教の慣習をこのまま、21世紀のキリスト者に当てはめることはできません。

それでも大切な原則が教えられています。この信仰の違い、意見の違いにどのように対処すべきなのかを、その原則を教えています。その前に、キリスト者の間に、なぜ信仰の違い、意見の違いがあるのかを考えてみましょう。

――――――――――――――――――――――――

キリスト者の間にも意見の違いがある

私たちは、主イエス・キリストを信じる同じ信仰をもっているキリスト者です。主イエス・キリストの名によって同じバプテスマ、洗礼を受け、同じ神様の聖霊をいただいています。

しかし、それでもキリスト者の中には、弱い信仰の人もいれば、強い信仰を持っている人もいます。私たちは、それぞれ生まれ育った環境が違い、文化、考え方も違います。主イエス・キリストを信じている同じ信仰を持っていても、違った意見を持っているのです。

これは当然のことです。天のお父さまは、我々一人一人を、違った人間として、個性ある人間として生まれさせました。

意見の多様性、考え方の多様性、考え方の違いがあるからこそ、私たち人間は、神様に似せられた者として生かされているのではないでしょうか。

私たちは、同じ顔、同じ背格好、同じ考え方を持っているロボット、サイボーグではありません。神様に似せられて創られた個性をもった人間です。しかし、信仰の違い、意見の違いを、神様の御心に従って、対処する必要があります。

―――――――――――――――――――――――――

信仰の違い、意見の違いで人を裁いてはいけない

まず第一に、信仰の違い、意見の違いで人を裁いてはいけません。

キリスト者の間にも、信仰の幅は非常に広いのです。なぜこんなことを信じているのだろうか、と思わせる方々に私は何人にも会ってきました。しかし、これも私の尺度で、その人の信仰を測っているだけです。

ここで私たちは謙虚になりましょう。謙虚とは、「自分は何もできない」と考え、自分を下げるのではありません。むしろ、神様を見上げる心から生まれてきます。自分がどれほど祝福を受けているのか、感謝の気持ちから生まれてきます。

この感謝と謙虚さがあれば、信仰の違いや意見の違いがあったとしても、他の人を裁く事はありません。

―――――――――――――――――――――――――

お互いに違った信仰、意見を受け入れる

この世の中には、人の間違いを正すのが使命だと思っている人たちがいます。キリスト者の間にもそのような人がいるようです。

私もそんなタイプの人間でした。私は、中学、高校生の頃から教えるのが好きだったので、人の間違いを見ると、(自分が思っているだけですが、)善意で助けようと思ってしまうような所がありました。

この癖で何回も間違いを犯してきました。今でも意識的に修正しています。

しかし、キリスト者の間では、明らかに罪を犯している場合を除いて、このような態度は必要ありません。むしろ、お互いに違った信仰、違った意見を受け入れるべきなのです。

――――――――――――――――――――――――――――

主のために生きて主のために死ぬから

なぜ、私たちは、お互いに信仰の違いや意見の違いを受け入れるべきなのでしょうか。

それは、一人一人が主のものだからです。主イエス様が、私たち一人一人を受け入れて下さっているからです。主イエス様が、意見の違う私たち一人一人を、支えてくださっているからです。

私たちは、主のために生きて、主のために死にます。命も信仰も、主イエス様から来ているからです。意見が違うからといって、その人は主イエス・キリストの弟子ではないと誰が言えるでしょうか。

―――――――――――――――――――――

一人一人が、主の御前で申し開きをするから

私たちが信仰の違いや意見の違いを受け入れるべき理由、もう一つ大切な理由があります。それは、最終的に、一人一人が、主の御前で自分の信仰について申し開きをする時が来るからです。

私が、他の人の信仰や意見を裁く事はできません。なぜなら、神様ご自身が私たち一人一人を裁くからです。主イエス様が再臨されるとき、キリスト者も含めたすべの人間は、神様の御前にひれ伏します。

どんな事を信じ、どんな信仰をもって生きてきたのかを、主の御前で申し開きをする時がきます。私たちは、キリストの共同体の中で、お互いに励まし合いながら、生きていくのです。

―――――――――――――――――――――――

自分の信仰、信条を自己主張する時

自分の信仰、信条を自己主張して、「自分の信条が正しく、他の人の信条は間違っている」と言い張る人を見てきました。私自身も、このような態度を持って間違いを犯したことがありました。非常に愚かな行いです。

ローマ14章13-23節を読んでみましょう。

14:13 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。

 14:14 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。

 14:15 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。

 14:16 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。

 14:17 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

 14:18 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。

 14:19 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。

 14:20 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。

 14:21 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。

 14:22 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。

 14:23 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。

この聖句も1世紀の文化が背景で書かれていますが、その原則は私たちに当てはまります。自分が正しいと信じていることを、他のクリスチャンを省みず、主張したり、行動していたら、どうなるでしょうか。人の躓きになってしまう、とこの聖句は警告しています。

――――――――――――――――――――――――――――

他の人を省みず自分の信仰、意見を主張する時

私たちが、他の人を省みず、自分の信仰や意見を主張する時、あまり良いことは起こりません。

他の人の信仰を省みない一線を越えると、私たちは多くの問題を抱え込むことになります。意見が違うからと言って、その人の人格まで疑うようになってしまったら、もう本末転倒です。「なぜこんな簡単な事が、彼は見えないのか。その人は単細胞だから仕方ない」などと、ある人が言っているのを聞いたことがあります。こんな事があってはいけません。

人には、それぞれ違った信仰があって当然です。その違いには、善悪はありません。ある人は、これを信じている、他の人は信じていないと言っても、主イエス・キリストを人生の師、先生と信じている限り、何ら悪い事ではないのです。

しかし、一度、躓きを与えてしまうような人間関係においては、信頼関係を持てなくて、修復がなされないままの場合もあります。だから、気をつけなければなりません。来週は、人につまずきを与えないために、何をするべきかを考えてみます。

―――――――――――――――――――――――――――

自分の信仰は自分の中にしまっておく時

意見の違いを認識して、自分の信仰は自分の中にしまっておいた方がベストな場合があります。14章5節と22節を読んでみましょう。

14:5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。

14:22 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。

私たちは一人一人、聖書について、主イエス様について、教会について、違った意見を持っているかもしれません。それはみな、自分の信仰に基づいて、決めるべきことです。他の人から押し付けられたりして、決めることではありません。また他の人に押し付けてもいけません。

もしあなたが、他の人の信仰とは違う、まったく違った意見を持っていると思っていたら、そっと自分の心の中にしまっておきましょう。親しい友人と分かち合うことは、良いことだと思いますが、それを議論の道具にしてはいけません。

――――――――――――――――――――――

お互いの信仰を分かち合う

しかし、ここで疑問が湧いてくるのではないでしょうか。聖書は、明らかに、「お互いに信仰を分かち合い励まし合いなさい」と教えています。

信仰を分かち合うとは、お互いに主イエス様の方に目を向けるという事ではないでしょうか。信仰という絆で手をつなぎ、天の御国に向って歩む事ではないでしょうか。

主イエス・キリストへの信仰を分かち合い、励まし合う事と、ただ単に自分の信仰や意見を主張するのには、大きな違いがあります。常に、他の人の信仰を省みて、信仰を分かち合う事、これが重要ではないでしょうか。

―――――――――――――――――――――――――

意見の違いを超えて主イエス様にあって一致する

主イエス・キリストが建てている教会は、意見の違いを超えて主イエス様にあって一致できる教会です。共に、主イエス様の御心を求めて、祈り合える共同体です。

私たちが目指す教会は、教派の教理に囚われない自由な教会、教派の教理を出来る限りそぎ落として、どんな教派から来ても、いっしょに礼拝できる教会になりたいと考えています。

キリスト教には星の数ほど教派があります。その発端は、キリスト教のリーダーたちが、自分の意見を神様の御心であると主張し始めた所から始まっています。そんな事が横田キリストの教会にありません。

意見の違いを持っているのは、当たり前です。だからこそ、一人一人が自分の信仰に責任を持つべきなのです。なぜなら、私たちはすべて主イエス様の御前で自分の信仰について申し開きをするからです。

同時に、私たちは、主イエス・キリストを信じる同じ信仰をもっている共同体、教会です。一人一人が、主イエス・キリストに目を向けているキリスト者の集まりです。

今週も、主イエス様の教えに従って過ごしましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です