コンテンツへスキップ 投稿日:2023年10月13日/更新日:2023年10月13日

主イエス・キリストの御心と憐れみ

イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

ルカ福音書5章12-16節 聖書協会

イエスとツァラアト 

さて、で始まる新たな展開に、寸暇を惜しまず人々にかかわる主イエスの姿が見えます。ある町に主イエスがおられたと記録します。町名がわからないほうがよいかもしれない。町のある人が全身ツァラアトだったからです。病は宗教的汚れと見なされ、忌み嫌われ、社会から隔離されます。町の名が匿名のほうがよいのです。

全身病で覆われた人は律法に従い対処すべき手順が要求されます。町にいることが違法行為です。特に宗教上の決まりを指導する者たちにとっては許し難い暴挙です。それでも、病の人は主イエスのおられるところに出てきます。このお方ならどうにかしてくれると来ます。そうでなければ、隔離されたところを離れ、町には来なかったでしょう。軽蔑と裁きが浴びせられるところに身をさらすことはなかったでしょう。

ひれ伏す病人

このお方ならと来た人が、主イエスを見ると、ひれ伏しお願いします。。周りの人、宗教上の規則、律法を司る者たちは眼中にありません。隔離の身です。人前に出ることに躊躇したかもしれません。恥さらしになり、宗教上の規則が心に重くのしかかったでしょう。しかし、このお方に願う思いが、はるかにまさります。

「お心一つで、私をきよくしていただけます。」全てに排除された者が主イエスに言うのです。「お心一つで、」他はなにもいりません。失った喜び、楽しみ、生活を求めません。お心一つで助けてください、と願います。その願いが「私をきよくして」ということです。私をきよくしてくださいではなく、私をきよくしていただけます、です。

伸ばされた手

社会と宗教で縛られ、排除された者の願いを主イエスは受けます。それは既存の仕組みに違反するものです。地域社会の人々、宗教家からは咎められ、攻撃材料となります。隔離されるべき人との接触です。宗教家たちは病に触れ汚れては、祭儀を行えなくなります。人々には考えられない光景です。「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。」

願った病の人に主イエスは手を伸ばし、彼にさわります。病ではなく、病んでいる人にさわったのです。排除されている、その人にさわります。彼の孤独と恥のなかに入ってきます。誰もそばに寄らず、家族さえ近くに行くことが出来なかった病です。その自分に主イエスは手を伸ばし、さわってくださいます。あわれみの御手がさわります。主イエスの愛が全身をはしったでしょう。

イエスの心

「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた主イエスです。病人はお願いを「お心一つで」と主に託します。その者のいままで、いま、そして将来、全てを受け止めてくださり、男の願いの言葉で応答します。「わたしの心だ。きよくなれ」とメシアが男にふれ、言われます。

お心一つでと願った者の一途さに、主イエスの御心が答えてくださいます。「わたしの心だ」と主イエスが、わたし、を前面に出しこころを現してくださいます。その心から、きよくなれと言われます。言われたようになります。汚れが伝染するどころか、きよくしてくださいます。誰も見向きもしない者にさわり、男の願いの言葉を返し、きよくしてくださいます。愛の衝撃と同時に癒されます。心身ともに、主イエスのみことばにより捉えられ変えられます。全存在が主イエスのものとされます。

口止めされるイエス

きよくされた彼は晴れて自由に町で生活できます。自分が主イエスから受けた愛を語りたいのは自然なことです。それにストップをかけます。口止めのわけはおっしゃっていません。主イエスを癒人、奇跡を働くまじない師と民が誤解するのを避けたでしょう。癒し、奇跡を行いますが、なによりも願うのは父なる神のみこころを成すことです。罪に縛られる者を解放することが重要です。主イエスに願う者がきよめられ、解放されることを求めます。

口止めする一方で、律法の手順を踏むように指示します。彼が律法の教えを踏まえ、共同体に属することが出来るよう教えます。「祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたようにあなたのきよめの供え物をしなさい。」癒しは個人的体験だけでなく公にされます。それが、きよめの宣言を委ねられた祭司に行くことです。

次に、人々へのあかしのため、モーセが説く供え物をしなさいと指示します。神殿での行為が人々へのあかしとなります。神殿共同体へのあかしとして、モーセが命じたことに従います。すべて父なる神のみこころによるものです。この指示により、人々が主イエスの御業を自分に都合のよい方に曲げようとする試みを断ちます。人の思いに口止めをし、父なる神の御支配に徹することを指示します。

口止めがあり、神殿行為を指示し社会復帰を促した主イエスです。ツァラアトの者がきよめられ、神殿で祭司にきよいと宣言され、モーセが命じた供え物をします。うわさで主イエスのところに人々が集まります。うわさは一時です。しかし、主イエスのうわさは、ますます広がります。「わたしの心だ」と語ってくださる主イエスに集まります。ここでは、うわさが現実化します。主イエスの働きは人々の注目の的となります。人々の集まる勢いは増します。主イエスは評判や思い込みに巻き込まれることなく、荒野に入ります。

「しかし、主イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」

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