コンテンツへスキップ 投稿日:2024年4月4日/更新日:2024年4月4日

神様が求める信仰とは?

イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

ルカの福音書 7章1-10節 聖書協会

みことば成る 

マタイの山上の教えに対し、平地の説教を聞く弟子たちと民衆は主イエスの道へ導かれます。座学は終わり、実践となります。弟子たちの働きは自分の権威や能力によらず、あくまでも聞くみことばに依ります。みことばが働きの源です。弟子たちは主イエスのみことばを聞き生活現場へ向かいます。

その矢先、ところが、とことわり死の危機に陥っているひとりのしもべのことが取り上げられます。生きるのが当たり前です。死の危機が襲う事態はその真逆です。ところが、予期せぬことが起こります。当たり前に指す影、命を脅かすまさかの出来事が襲う、ところが、です。日常を脅かす非常事態を指す、ところが、です。

死に至る病のしもべは百人隊長に仕える者です。隊長は生死の瀬戸際で職務を全うする者です。その者に仕えるしもべです。部下ではなく、ひとりのしもべに起こっていることです。職務上の価値の量りがあれば、低辺に属する者です。百人隊長の量りは異なります。しもべはおもんじられている、とあります。大事にされているということです。しもべの値打ちではなく、存在をおもんじます。その姿勢を現わす言葉が「ひとりのしもべ」の表現です。

しもべの危篤に直面した隊長が思い起こすのがイエスです。イスラエルの支配の一翼を担い、異邦人である者が、イエスをとっさに思うのは尋常ではありません。敵対者と思うことがあっても、助け手として浮かんだのは驚きです。さらに、イエスのみもとに送った者たちは異邦の民を忌み嫌うユダヤ人です。イエスに反感持ち、支配者に苦い思いを抱く長老たちです。

壁を超え

危機で百人隊長は政治的、社会的、宗教的、そして人種の壁を超えてイエスへの願いを届けます。その思いに沿う長老たちが熱心にお願いします。これも感動的場面です。支配側の軍人に反目する者と見られる人たちです。その者たちが使いとなりイエスのみもとに来て熱心に願うのです。長老たちは百人隊長から離れます。頼まれたことを伝えたと帰路につくことも出来ます。

しかし、長老たちは熱心にお願いします。それも「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。」と言い添えます。さらに、「この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」イスラエルを支配する側の百人隊長がユダヤの民を愛します。会堂建設にも貢献します。「ひとりのしもべ」に思いを注ぐ百人隊長の姿が長老たちにクッキリと描かれます。百人隊長の情が人々に刻み込まれていたのでしょう。

長老たちの願いを聞かれたイエスは、彼らと行動します。危機に瀕しているしもべに向かいます。会堂の長老たちの言葉を受け向かいます。隊長は危篤状態のしもべのため幾多の壁を超えイエスに助けを求めます。イエスは隊長や会堂の長老たちを前にし死の危機に向かいます。ひとりのしもべのため動いた百人隊長、その者のために行動するイエスです。

百人隊長の家からあまり遠くない所で隊長は友人を使いに出しイエスに伝えます。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」さらに続け、「わたしのほうから伺うことさえ失礼と存じました。」隊長は時を経過し自分の願いの不躾さに気付いたのでしょうか。イエスに対する畏怖の念から生じた言葉でしょう。

権威を知って

友人たちは言葉を続け、「おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」「必ず」と告白します。瀕死のしもべを抱え、長老たちを送り、友人たちを送る百人隊長の確信は、「おことばをください。しもべは必ずおことば通りになります。」告白の根拠はイエスの権威です。権威あることばがことを成すことを百人隊長は知っています。

百人隊長は自分の経験を遥かに超えイエスの権威が死に至る危機さえも反転させるちからを持つことを表明します。イエスのおことばにしもべのいのちがかかります、と告白します。口先のことばではありません。百人隊長はひとりのしもべのいやしのためにこころの底からイエスに助けを求めます。イエスの権威あることばを求め、聞こうとするこころです。

イエスの驚き

友を通し隊長の告白を聞きイエスは驚きます。第三者を通して聞く告白ですが、百人隊長自身の言葉として受け止めます。そして、群衆に向かって言います。そこに百人隊長はおりません。友人たちがいます。彼らを通しイエスが群衆に語ることが隊長に伝わるでしょう。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰はイスラエルの中にも見たことがありません。」

エルサレムでも見たことのないりっぱな信仰と百人隊長を称賛します。イエスが驚き、イスラエルでも見たことのないりっぱな信仰とは何を指すでしょうか。しもべのいのちを大切にする行動でしょうか。異邦人が長老を送りイエスに助けを求めることでしょうか。友人を遣わし、自分は同じ屋根の下に居る資格もなく、出向き顔を合わせる資格もない謙りでしょうか。使いを通してもいやしてくださるイエスへの信頼でしょうか。

これらのことにイエスは驚いたでしょうか。そうではありません。驚きは百人隊長の権威に対する信頼です。イエスの権威のことばへの信頼です。「おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」百人隊長が何をし、どのような人物であったかが驚きの対象ではありません。驚きは、隊長が放った、みことばとイエスのご臨在が一つである告白です。

みことばの権威を認め、そのようになるとの告白です。みことばの民である者に見ることが出来ないイエスの悲しみが現れる言葉が「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰はイスラエルの中にも見たことがありません。」です。権威あるみことばを、権威あるものとして聞く信仰が問われます。しもべは良くなっていました。

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