死後、人は悔い改めて誰もが成仏すると、仏教では信じられているようです。このような概念から「地獄に仏」のような諺、表現が生まれたのかもしれません。死後、救いのセカンド・チャンスはあるのでしょうか。
聖書は地獄の存在を肯定しています。どのような所か見たことはないのでわかりませんが(見たいところでありません)、人間の魂が苦しむ所であるのは間違いないでしょう。
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」ルカ16章19節—31節 聖書協会
主イエス様は、死後、人の魂に何が起きるかをこのたとえ話で説明しています。金持ちは苦しみに喘ぎ、アブラハムに憐れみを懇願しますが、死んだ後ではもう遅すぎます。裁きは下されたのです。ラザロと金持ちの間には大きな淵があって、行き来は出来ないのです。この話からすると、死後のセカンドチャンスはないように思われます。
死後の地獄か、天の御国か?
死後の世界は死んだ人にしかわかりません。しかし、私たちには必ず死がおとずれます。死後に、人生をやり直すことは出来ないと思います。地獄に仏はいません。今どのように生きるかによって、死後の命の命運が決まるのです。さて、その死をどのようにわたしたちは迎えるのでしょうか。地獄の存在は事実だとしたら、あなたはどのように生きようと思いますか。
死後に、永遠の命があると聖書は明確に教えています。天の御国に入るための永遠の命です。しかし、同時に神の裁きを受ける永遠の命も存在します。それが地獄です。最後の裁きは、神様ご自身がなさいます。神様の裁きは、グループごとに行われるのではなく、個人個人に下されるものです。「あなたは・・・教会に行っていたから救われる」と神様は言うのでしょうか。そうではないと私は思います。すべての人間が、クリスチャンの方もクリスチャンではない方も、死後、神様の御前に立ち裁きを受けます。
死後に、救いのセカンド・チャンスがあると説く牧師さんがいるのを、私は認識しています。この方の影響力ゆえか、多くの方々がこの信仰をもっています。私自身、この信仰はどのようなものかを聞くために、会合に出席しました。実際に聞いてみないとわかりませんので。本人の口から直接聞かないことには批判もできません。
救いの一番の近道は、主イエス・キリストを信じること
しかし、私は死後に救いのセカンド・チャンスはないと思いますが、これは単なる私の意見に過ぎません。最後は、神様がすべての人間を裁くでしょう。あるとも断定できないし、ないとも断定できないのです。
死後、救われるか、救われないのかは、神様の御手の中にあります。「地獄に仏」のようなセカンド・チャンスにかけるよりも、今生きている間に主イエス・キリストを信じた方が、1000倍安全な道です。主イエス・キリストを信じれば、この世で生きている間に大いなる恵みに与ることができます。
主イエス様は、私たちに死後の救いだけを与えるためにだけ、この地に来たのではありません。私たちに神様の愛を分かち合うために来たのです。私たちが、この地上で生きている間に、神様とともに生きていく素晴らしさを伝えるために、天から降りてきたのです。今、主イエス・キリストを心から受け入れましょう。