コンテンツへスキップ 投稿日:2022年11月18日/更新日:2023年4月30日

ルカ1章57-66節。良い知らせの案内役 

渇く人

ルカの福音書1章57~66節の箇所に入る前にマリヤの賛歌のはじめのみことばに注目します。

「マリヤは言った。『わがたましいは主をあがめ、』」の、「わがたましい」です。たましい、は喉を表します。渇く部分です。渇きはイスラエルに身近な光景です。南部には渇いた荒地が拡がります。かつて同国を旅し、一木一草もない、渇ききった大地を目の当たりにしました。渇くことは命取りとなります。わがたましい、喉、渇きのイメージから、人間の現実が顕になります。

人間は渇く存在です。この渇きが潤されないと生きてゆけません。マリヤは、わがたましいは、と告白します。わたしは渇く者の告白と言ってよいでしょう。渇く人間から喉を通し、歌を溢れさせてくださる主なる神がおられます。渇く者、マリヤが恵みの潤いで、喉から主への賛歌を溢れさせます。

渇いてよいのです。むしろ渇くのが私たちです。しかし、主なる神の子等とされるなら、命取りの渇きではなく、御前に生きるワクワクした渇きを生かされる者となります。主なる神のあわれみでキリスト者とされた私たちです。虚しく滅びる渇きから、主なる神に愛され満たされ、新生への渇き、聖なる御方への渇きへと変えられ、生かされる体験をします。

「祭りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」(ヨハネ第七章三十七、三十八節)この約束は主イエス・キリストを信じる者に起こります。たましい、喉、渇きについてはここまでです。

神のとき

ルカの福音書1章57~66節

さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。

ルカ1章57-66節 聖書協会

エリサベツとマリヤのとまどいと期待と喜びが織り成すなか、神のときが進みます。「さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。」御業が具体化します。神に聴き従う者を通し現われる偉業が進みます。人の目には障壁でありながら、神には無きことのように事柄が進みます。主なる神の御業、福音到来です。神のなさることは地上での障壁、様々な障害に向き合い生きる者を、神の次元、事柄へ引き上げ、困難を越えさせてくださいます。神のみこころのままに事業が展開します。

ことの大小は問いません。私たちに問われるのは神の導きに鋭敏で忠実なる僕であることです。やがては全幅の信頼を神に表しますが、しかしそこに到着するまで二人の女性もとまどい、問いを抱き、それを言葉にします。神と真剣に向き合い取り組み、生きて働かれる主なる神を体感します。主なる神は、問い、思いをぶっつけ、信頼し、委ね、なお真に取り組みたくなるお方です。ルカの筆を通し、二人の女性が主なる神と向き合い、真実に取り組み、委ね生きる信仰の息遣いを感得することができます。

集会にて

集会において歌い、祈り、アーメンと告白しつつも、なお解決の道筋が不明な課題があります。賛美しながらもなお悩み悲しむ現実があります。喜びつつも、痛む者を知る実状があります。病を抱え不安の中から希望を祈ります。喜びと悲しみが同居するなか、いったいどちらが本当ですか神さま、と問うこともあります。平安のなかにも痛みが走ることがあります。主よ!どちらがあなたの御旨ですかと主を仰ぎます。

「悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶ者と共に喜びなさい。」と主イエスに捉えられたパウロは語ります。悲しみと喜びは同居します。主は悲しみと喜び、いずれの場でも私たちに讃えの歌を備えてくださいます。そのように生ける主と取り組み、ここに生きておられる主を、慰め主であると発見し歩を進めます。

教会で、主に語り、賛美し、嘆き叫ぶ信仰の息遣いを感じるのです。あそこに喜びがあり、あちらに苦悩が、こちらに痛む者が、遠くに迷う者がおります。それでもなお主を仰ぎ礼拝する民がいます。その兄弟姉妹たち一人ひとりを通し主イエス・キリストのすがたがジグソーパズルのように描き出されます。

あなたがたは主イエス・キリストの手であり足です。からだの部分です。その手が今震えています。その足が今立ちすくんでいます。こころが痛んでいます。しかし、手を足をかしらなる、からだのすべてを支える主イエス・キリストが伴われます。主がみからだのすべてを担われます。その主を証言する群れでありたい、その主を告白する信仰共同体でありたい。

エリザベツへの憐み

この章だけなら、ルカは主イエスに関わることより、エリサベツの幼子について多くの文字を割きます。ルカの忠実さの現われでしょう。順序立て主イエス・キリストを紹介する忠実さです。主なる神の導きを鋭く感知し着実に進ませるペン先に信仰者の姿を見るのは、筆者だけではないでしょう。

エリサベツの出産は簡潔に紹介されます。それに比し、隣近所の人々や親族の様子が多く書かれ、礼拝共同体の姿がある気がします。礼拝すべきお方を基軸にし、互いによい関係、距離を生きていると想像します。礼拝共同体と表現したのは、エリサベツの出産に人々は「主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて」とあるからです。

そのことばを聞き、自分たちのこととして受け止め、彼女と共に喜んだとあります。だから、礼拝共同体です。主のあわれみを共感し、共有しているのです。ルカ共同体、ルカ福音書をつむぎだす教会は、エリサベツの出産を、主の大きなあわれみを喜ぶ信仰共同体として現われます。今日福音書を聴く私たちも、主のあわれみ、御業を喜ぶ信仰共同体です。エリサベツに現われた主の大きなあわれみに驚き、喜び、御名を讃えています。

ザカリヤの試練

ヨハネの誕生はモーセ律法のなか起こります。八日目に人々は幼子、ヨハネを割礼するために祭司のところ、神殿にやって来ます。そこで取り上げられるのが幼子の命名です。伝統に習いザカリヤと命名しようとしたところ、エリサベツは異を唱え、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません」と言います。いいえ、と言明することは決心のいることであったと思います。女性が、それも超高齢出産した異例ずくめの女性が、イスラエルの伝統を覆し命名します。夫の名をさておき別名を候補とします。人々はエリサベツに言います。「あなたの親族にはそのような名の人はひとりも居ません。」

善きにつけ悪しきにつけ伝統で守られたイスラエルに、命名の伝統を変える行為がエリサベツにより提示されます。伝統に慣れた者たち、特に男社会で伝統を堅持してきた者たちには衝撃だったでしょう。習わしを疑い無く行って来た者には受け入れ難いことでしょう。決まりごとだから、意味や訳を問うことなく、馴れた行為を実践していた者たちに、どうしての思いが走ったでしょう。いつの時代も、教会では伝統と改革の綱引きがあります。本来は綱引きではなく、みこころを共に尋ねる忍耐と主への信頼をもって改革が進めば良いのですが。皆さんはどう思うでしょうか。

ここは、無口になった夫、ザカリヤに聞きましょう。伝統に従ってと言うことではありません。夫の顔をたてて、と言うことでもありません。みこころを尋ね求める行為として、ザカリヤに身振りで幼子の名を問います。「彼の名は、ヨハネ」と書きます。驚きが人々の間に走り、たちどころに、ザカリヤの閉ざされていた口が開け、舌は解け、ものが言えるようになったとあります。みこころに生かされるとき解放されます。解放された者が神をほめたたえます。御業を導かれる生ける神の臨在がたたえの中に現われます。

近所の人々はみな恐れたとあります。御業の確かさ、讃えの方を畏れ敬います。それは、出来事の一部始終をユダヤの山地全体にも語り伝えられて行ったことからわかります。怖くて縮みあがったわけではなく、神の御業に畏れ、伝えなくてはならなかったのです。良き知らせが山地をゆきわたります。それを聞く人々はみな、心にとどめたとあります。迷った、悩んだでもありません。

聞こえる言葉で、心騒ぎ、悩まし、病むことがあります。そのような言葉のいかに多い社会です。しかし、ここは心にとどめます。とどめたいことがあるのです。「いったいこの子は何に成るのでしょう」とこころにとどめます。それは、「主の御手が彼とともにあったからである」と告白されています。そうです、主の御手がある事柄、みことばは、聞く人々の心にとどまり、期待を呼び起こします。福音の先駆け、バプテスマのヨハネはそのような存在です。

「ルカ1章57-66節。良い知らせの案内役 」への1件のフィードバック

  1. 私たちは、まず自分が、この私が渇いているんだ、と気がつくことが大事ではないか、と思います。

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