コンテンツへスキップ 投稿日:2022年5月28日/更新日:2023年5月7日

主の晩餐、聖餐式は象徴か

聖餐式と主の晩餐の意味

解釈の原則 字義通り(文字通り)、たとえ、強調、象徴

パンとブドウ液が象徴なのか、それとも実際にキリストの肉と血となるのかを判断するために、解釈の例を列挙してみます。

  • 字義通り(文字通り)の解釈。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
  • たとえの解釈。イエス・キリストは、「わたしは羊の門である」と言っています。誰も物理的な門とは考えないでしょう。ご自分を羊の門に例えているのです。
  • 強調の解釈。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」もし文字通りの命令であれば、多くのクリスチャン男性は盲目になってしまうでしょう。
  • 象徴の解釈。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」十字架は象徴です。文字通り、物理的な十字架を背負って歩いた人がいますが、これもある意味、その人にとって象徴的な行動だったのではないでしょうか。その方が、自分が背負っている十字架の象徴として、物理的な十字架を背負いたかったのでしょう。すべてのクリスチャンが、物理的な十字架を背負うようには教えられていません。

その他、象徴として与えられている例

神の救いを覚えるために、神は礼拝の行いを救いの象徴として与えています。そのいくつかを旧約と新約から列挙してみます。

  • 旧約の時代では、エジプトの奴隷状態からイスラエルの民を救った神のわざを覚えるために、過ぎ越しの祭りが与えられました。
  • 神の創造のわざを覚えるために、安息日が与えられました。
  • イスラエルの人々は、自らの罪の重さと神の憐れみを思い起こすために、いけにえをささげました。
  • 新約の時代では、イエス・キリストの死を象徴する十字架が与えられています。
  • イエス・キリストの死と復活、クリスチャンの死と復活を象徴するバプテスマが与えられています。
  • 聖餐式である主の晩餐も、同様にイエス・キリストを覚えるために与えられているのです。

キリストの臨在、象徴のパンとブドウ液

イエス・キリストは、弟子たちを招き主の晩餐(聖餐式)を制定しました。今日、クリスチャンが主の晩餐にあずかるとき、主イエス・キリストは霊的に信者と共にいらっしゃいます。しかし、パンがキリストの肉に、ブドウ液がキリストの血に物理的に変化することはありません。なぜなら、神の御心ではないからです。また、そのように教えられてはいないからです。

クリスチャンは、信仰によってパンをキリストの体としていただきます。また信仰によってブドウ液をキリストの血としていただくのです。

もしある人が、個人の信仰によって物理的なキリストの血であるとして飲んでいるのであれば、それはその人にとって正しいことです。誰も裁くことは出来ません。主の晩餐である聖餐式は、教会全体の礼拝であると同時に、個人の礼拝でもあるからです。その人と主イエス・キリストとの関係において、主の晩餐は行われるべきだと私は思います。

もっと深く主の晩餐である聖餐式を理解するために、次の記事も読んでみてください。

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