コンテンツへスキップ 投稿日:2023年12月1日/更新日:2023年12月1日

クリスマスの真実

クリスマスの真実

なぜ、キリストの誕生は「降誕」と言うのでしょうか?クリスマスの出来事とは、視点を換えれば「神の受肉」なのだと言われますが、それは一体、どういうことなのでしょうか?そして、なぜ、そんなことが必要なのでしょうか?

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」        (

フィリピの信徒への手紙2章6~8節 聖書教会

いよいよ年の暮れ、師走12月になりました。そして、12月と言えば、クリスマスです。ちなみに、クリスマスとは、神の御子イエス・キリストの「降誕」を覚え、喜ぶ時です。

ところで、イエス・キリストの誕生を敢えて、降りて来て誕生するという意味で、「降誕」と言うのはなぜでしょうか?実は、聖書によれば、キリスト誕生とは本来、神であったお方が人間の低みにまで降りて来られ、人と成り下がられたということなのです。

このことを専門用語では「神の受肉」と呼びます。ちなみに、「受肉」と言っても、その辺のお肉屋さんで、スライスをお願いしておいたロース肉200gを受け取ることではありません。言うなれば、それは、全知全能で、永遠無限の霊的な存在である神が、有限矮小な人間の肉体を受け入れて、人となられたことなのです。

ちなみに、あなたは、「神の受肉」の大変さを想像できますでしょうか?・・・かの「ナルニア国物語」の著者、C.S.ルイスは、もし、あなたが神の受肉の大変さを垣間見たければ、直ちにナメクジになることを想像しなさい、と言っています。そんな大きな大きな犠牲を払って、神は受肉して、人間に成り下がられたという訳です。

野口良哉伝道者のメッセージ

それは一体、なぜでしょうか?・・・簡単に言えば、こういうことです。人の気持ちは人にしか判りませんし、人の身代わりは人にしかできないからです。多くの宗教は、人は死んだら神となると考えますが、聖書によれば、人はどこまでも人であり、神になることはあり得ません。ましてや、自らを救うことはあり得ないのでしょう。そこで恵みの神は、這い上がれない私たち人間のもとへ、逆に、降りていく決意をなさったのです。

 冒頭で掲示した聖書の言葉にありますように、キリストは神であることを辞めて、大きな犠牲を払って人となられ、私たち人間の艱難辛苦を全て舐め尽くされ、それらを直に体験されたのです。そのためにこそ、降りて来られたのです。

英語で「理解する」は、“under-stand”、すなわち、「下に立つ」と書きますが、まさに、神は私たち人間をとことん理解するために、under-stand”、すなわち、「下に立つ」べく、人の低み、私たちの低きにまで降りて来て下さったのではないでしょうか?そして、私たちを理解し尽くして下さったキリストは、これしかないと言って、あの贖いの十字架に架かって下さったのです。

これがクリスマスの真実です!

読んで下さいましたあなたに、神の平安とクリスマスの祝福が豊かにありますように。

シャローム & メリー・クリスマス!

御茶の水キリストの教会 野口 良哉

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