コンテンツへスキップ 投稿日:2024年1月29日/更新日:2024年1月29日

主イエスが使徒を選ぶ時 ルカ6章

そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

ルカ6章12-26節 聖書教会

山で祈るイエス 

直前でパリサイ人によるイエスへの攻撃が続きました。安息日に守るべき事とイエスへの敵意の闘いが続きました。攻撃者が分別を失う中、イエスが山に向かいます。群衆を後に退く山です。神との会話のためです。その祈りは夜明けまで続きます。祈りは、主イエスの御業がより大きな神の目的へ高められる出来事です。

祈りは主イエス・キリストに倣うキリスト者と重さなります。祈り無しではキリスト者の歩みは弱体化し、キリストのからだ、教会が衰退します。だから、主イエスは祈られたのではありません。ただ、祈り無しではみ旨に歩むことが不可能だからです。祈りは選択肢ではなく、必然です。主イエスの祈りの位置がそうならば、なおのこと祈りは私たちの中心軸であります。

使徒を召す

夜明けになり十二人の使徒を召します。宣教が増す中で彼らが主イエスを手伝うことになります。また、主イエスの昇天の後宣教が確実に継続してゆくことが出来るようにとのことでしょう。召した者たちにルカは使徒の表現を他の福音書より多用します。宣教の情熱と御霊の働きを強調するルカの特徴かもしれません。

彼らの使徒としての召しは使徒言行録にある、ペンテコステ、教会草創期の特別な使命をおびたものです。そして、十二の数をイスラエルの十二部族の象徴と解釈する者もいます。数の重要性は、イスカリオテ・ユダが死んだとき、神による選びが彼の代わりに探され再び十二となったことをルカは後に述べます。さらに使徒を召すことが出来ますが、十二としたのです。

主イエスが山に登り、祈り十二人が天の父なるみこころを宣べ伝える器として選ばれます。中にはかつて漁師の者、取税人であった者、ある種の政治集団に属していた者、またイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダなどがいます。主イエスとの絆にある彼らは使徒の身分と役割を担います。イスカリオテ・ユダは主イエスとの関係を断ち、自死します。

この厳しさを認めながらも、主イエス・キリストとの出会いと関係を与えられているキリスト者は広い意味で主イエスに祈られこの道にある恵みを覚えます。同時に、与えられている主イエスの僕、弟子の生涯は主イエス・キリストの証人としての使命があるということです。御国を生きる民として世を旅する主イエス・キリストにある証人としての旅です。

山を下り

使徒を選んだ後、山を弟子たちと下ります。登り仲間を選び、下り宣教を開始する備えでした。彼らに「さあ、見なさい、聞きなさい、こうするのです」と訓練する様子はありません。彼らには与えられた機会に気付くところに立たせます。主イエスの近くで観察し倣う者となります。従い、倣います。

彼らは山から下りて平らなところに立ちます。里まで下り人々が生活する場、人々と同じ地平に立つ意味での平らなところかもしれません。群衆は三つのグループ、使徒たち、弟子たち、民衆です。民衆が南はエルサレムやユダヤ、北はツロやシドンからと、主イエスの宣教が広く及んでいることを語ります。ユダヤ人にまじり異邦人もいたことを暗示します。群衆に病人や主イエスが特別関心を払う人々も混在しています。

ルカの福音書の解説 戸村甚栄伝道者

平地での教え

大聴衆のなか主イエスは特別に弟子たちに話します。しかし、説教の終わりでは、「イエスは、民衆にこれらのすべて話し終えて・・・」とあります。聴衆の中には主イエスにすでに従う弟子たちと、これから弟子となる者たちがいたでしょう。教えは排他的でなく、弟子たちだけが知り得る特別な教えや秘密でもありません。主イエスの宣教は誰にでもオープンなものです。

「貧しい者は幸いです。」の教えで始まります。マタイのように「心の貧しい者は幸いです」ではなく、ルカが当てるひかりは経済的に困窮している者です。貧しさをなにか精神的なものに解釈することはなく、字義通りに読めばよいでしょう。物理的困窮は精神状態に影響を及ぼすことをも否定することもありません。貧しさがもたらす惨めさの現実が突きつけられます。

ルカが扱う教えは、マタイの至福のものだけと異なります。四つの幸いの後には四つのわざわいが前段の状況の反対として語られます。因果関係を教え、祝福を受け、わざわいを避ける生き方をしなさいということではありません。実際の状況がどうであるのか述べます。

群衆の中に祝福とわざわいを体験している者もいたかもしれません。主イエスの語りを聞きながら自分のことだと耳をそばだてて聞く者もいたでしょう。それらの者が仮に主イエスの周りに不在でも、街の通りには数知れずいたでしょう。そして、今日、ここで、このみことばを聞く私たちの現実が明らかにされるのです。

神の国

神の国の訪れは、富む者と貧しい者、力ある者と力なき者、満たされている者と飢えた者との逆転が示されます。これらは、将来のことを描いているのでしょうか。そうとも、そうでないともいえます。祝福とわざわいは現在に根ざしたものです。その現実を通し見えてくる将来があったのでしょう。

現在と将来が集約する終末時代が主イエスの降誕ですでに始まっています。祝福とわざわいの現実を直視してゆくなか、神の現実が主イエス・キリストを通し完成へと突き進みます。キリストのからだなる教会、神の民を通しご計画が進んでいます。  主よ、弱き我らを、なお導きたまえ!

 蕨キリストの教会 戸村 甚榮

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