ルカの福音書1章。戸惑うマリア

ルカの福音書1章26-38節は、現代人に何を語っているのでしょうか。蕨キリストの教会の戸村甚栄伝道者の寄稿。

息を呑む間も無く

神の御業は私たちに息をつく暇を与えません。想像を絶する展開がつぎからつぎへと起こります。ザカリヤへの御使いの訪れはエルサレムの神殿です。そこが約束の場でした。そして、半年後、エルサレムから離れたガリラヤのナザレの町での出来事です。今度は夫婦ではなく、ひとりの処女への約束です。場所といい、一人の処女への約束といい一体どういうことになるのか分かりません。とてもとても、人が思い、描くことが出来ない始まりです。

医者ルカが繰り返す、処女の言葉。そして女性自身の口から「まだ男の人を知りませんのに」とあります。歴史家ルカが経験したことのない神の出来事の衝撃を物語ります。自然の理ではわからないことです。それに未婚の女性に子が宿ることなど恥辱的なことです。不道徳なことです。女性は婚約中であったとあります。なお恥ずべきこととして関係者を巻き込んで辱めることになります。人として、家族のなかで、社会で、あってはならないことでした。妻としてめとった者が、女性が処女ではなかったといいふらし、もし、それが偽りであったなら夫は鞭打ちにされ、罰金を払い、生涯女性と離縁できないとされました。他方、女性がもし処女でなかったなら石打ちの刑で死ななければならない。悪を取り除く処置をうけます。このような教えがされる社会での出来事です。

現在の男女関係はどうかと言えば、未婚の母あり、○○○婚があり、婚約、婚姻の重みは軽くなった風潮があります。そして、このような中で女性を責め、つらく当たるむきがないとも言えません。実は男性の無責任さ、頼りなさこそ痛烈な非難を受けなくてはならないのではないでしょうか。いずれにしても男女とも辛い思いで生きる日々があります。罪深い社会の現状があります。たががはずれた家庭、社会です。ルカが記録した時代から、さらにひどくたががはずれてしまった今日ではないでしょうか。

それでいて、なにか男女関係、夫婦関係の過ちが起こると巷では雑誌が書きたて、他人ごとのように責めたてます。電車のつり広告の数を見るだけで、たががはずれた社会が見えます。それを面白おかしく書き、食い物にしながら、責めたてる歪んだ社会があらわになります。そのなかにどっぷりと漬かっていてはならないのです。たががはずれた社会にあるからこそ、それだからこそ、みこころに生かされる神の民は必要なのです。たががはずれたまま平気で、それが当たり前と主張する罪深い社会です。罪赦され、罪の縄目から救い出された者が、みこころに生きることを喜び、真実にキリストのかおりとして歩むことを神は求めています。それも、律法主義者のように、あれは駄目、これは駄目だと傍観者の裁き手、裁判官の振舞いではなく、社会で罪との闘いを共苦、共痛しつつ、愛をもって真理を生きる、愛の使者として生きることが求められます。神が愛される人が、家庭が、社会が滅んではならないからです。人の罪深さがもたらす悲劇に深く入り込み横道にそれてしまいました。みことばに帰ります。ここは人間関係の堕落ではなく、御使いによって放たれた神の御計画のことです。

戸惑うマリヤ

ルカの福音書1章26-38節

処女は、ダビデの家系ヨセフのいいなずけで、名をマリヤと言った。個人的にも社会的にも受け入れ難い、はたから見て不道徳で罪深い衝撃的なことが起ころうとするとき、名指しです。嫁ぎ先が、ユダヤが誇るダビデ王の家系の者とあります。その家系に泥を塗るようなことが起こりつつあります。あまりにも非常識、不道徳なことにもかかわらずマリヤの名があげられます。言われた当人には身に覚えのないことです。出来事を見守っている者たちにはどうすることも出来ないことです。世間体としてはもってのほか、恥ずべきことです。しかし、神の御計画は前進します。世間が、マリヤが、どう思うにもかかわらず天使のことばがあります。「おめでとう。恵まれた方。主がともにいます。」想定外のこと、ありえないこと、当事者には人生の危機です。この事件ばかりか、似たようなこと、想定外のことは私たちの人生にも起こります。それでも、神の視線からは、おめでとう、恵みのおとずれです。人の目には危機とも思える、その真っ只中に主がいます。主が中心におられます。だからことはどうであれ恵みです。

思いもよらない事件に直面し、ひどくとまどうマリヤに御使いは矢継ぎ早に約束を伝えます。男の子の誕生、名をイエス、すぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれ、神が彼に父ダビデの王位を与え、彼はとこしえにヤコブの家を治め、とこしえの国となる、と一息で語ります。ひどくとまどう者に、驚嘆すべき事柄がつぎからつぎへと聞こえます。御使いのことばです。天からのみことばです。神の御意志がマリヤのこころ深く届きます。

そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」恐れ、とまどいながらもマリヤは問うことを止めません。極めてプライベートなことについて問います。出来れば口にしたくない男性との関わりを取り上げ問います。貞節と純潔を大事にする社会で、身にふりかかった一大危機です。問わなければなりません。さらに、いのちを授かる者としての真剣な問いでしょう。いのちをあずかり、育み、その後に続く生活を守る者の真剣な問いでしょう。真剣な問いというより後に引けない切実な問いです。そして、なによりも止むことのない、諦めない懸命な問いは、神を信じる者の真実な態度です。いままでの歩みから裏切らない唯一の神、聴いてくださる唯一の神、どこまでも応答してくださる唯一の御方であることを信じて疑わないマリヤがここにいます。この福音書に耳を傾け聴くわたくしたちも、マリヤが問う同じ神にあらゆることを問うことが出来るのです。たとえ即答がなくても、必ず応答される神を信じ問いつつ神に生かされています。忘れてはならない恵みの真実です。

うえからの言葉

マリヤの問いに御使いは答えます。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」これは神の御計画宣言です。地上に立つ者、マリヤの一生懸命な問いに、神は御使いを通し、天からの御計画、御業を宣言します。聖霊と父なる神と、そして御子イエスの到来が三位一体の神を通し成就します。地上から問うマリヤは三位一体の神がなす御業のなかへと引き上げられます。それが、御霊があなたの上に望み、いと高き方の力があなたをおおい、生まれる者は神の子です、の宣言を聴くことです。

さらに、御使いはエリサベツに起こったことに目を向けさせます。マリヤの懸命な思いに応答してのことでしょう。やがてマリヤの身に訪れることへの備えとして語ります。不妊の女といわれていた人です。だれが言ったのでしょうか。人々でしょうか、親戚でしょうか。それよりも望みが絶たれたエリサベツの嘆きがあったでしょう。しかし、今はもう六ヶ月になっています。何十年も子に恵まれることがなかった老夫婦に起こっていることは驚きです。この出来事は夫婦の間に起こっています。わたしはいいなずけの身、処女です。彼らとはことの成り行きが違います、とマリヤは問いかけたかったかもしれません。置かれた状況の違いを主張しても不思議でありません。

わたしたちは言いがちです。あの人の場合はそうです。しかし、わたしは状況も成り行きも異なります。だから神様、あなたがそう言っても簡単には承知できません、自分のなかでさえ、あの時はそうだったが、今は違います。状況はさらに深刻です。だから神様、今の辛さを、かつてのように乗り越えることはとても出来ません。なんとかしてください。迫る困難、抱える苦難に向き合い、あの人はどうだ、この人はどうだ、あの場合はどうだ、この場合はどうだと神にくってかかるのです。神と組み合うぐらいならよいのですが、そうではなく、異なりを主張し、弁解口調になり神への不信をつのらせることがあります。ところがマリヤはああだ、こうだと御使いに言いません。

マリヤは弁解しません。御使いのことばを聴き続けます。「神にとって不可能なことは一つもありません。」エリサベツであろうが、マリヤの場合であろうが、どんな場合にもかかわらず、不可能なことが一つもない神が恵みを注いでくださるのです。ああだ、こうだ、あの場合、この場合、あの人、この人と言い続けることはないのです。「神にとって不可能なことは一つもありません。」みことばに聴くのです。神に委ね、そこでピリオドです。

マリヤはみことばを聴き振る舞いを決めます。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」ほんとうに、私は主の女奴隷です、と告白します。その上で、あなたが語られた通りになりますように、と祈り願います。アーメンの告白です。その通りです。そうです。そうなります。みこころがなる告白です!福音を聴くとはそういうことです。それも、ここは福音到来の「約束」、主イエスのご降誕の「約束」です。マリヤは「約束」に対して身をあずけてそのようになりますように、と告白し、来る日に備えます。「こうして御使いは彼女から去って行った。」御使いは神の確かな道をマリヤに残し去ります。神の御業が御霊の働きによりマリヤの生涯に刻まれます。御使いが去った後も備えの賛歌がしばらく続きます。

戸村甚栄 蕨キリストの教会

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