バプテスマのヨハネ

ルカの福音書1章15-25節の解説。蕨キリストの教会の戸村甚栄伝道者の寄稿。

福音の先駆者・バプテスマのヨハネ

ルカの福音書1章15-25節

ルカの福音書1章15節ー25節

立ち返るために

十五節の直前にはバプテスマ・ヨハネの誕生予告が喜びに満ちるものであったと記されます。そして、喜びのうちに迎えられるヨハネを彼と呼びながら、誕生前に様々な紹介がされます。主の御前にすぐれた者となるからです、と喜びの一端を表しています。御前にすぐれた者となるとは、どのような者になることでしょうか。偉大と言う意味をも含む、すぐれた、とはどのようなことでしょうか。御前にすぐれた者です。世界ですぐれ者とは言っておられないことに注目です。母の胎内にあるときから聖霊に満たされた、とありますから、みこころに満ちる者です。この事実が御前ですぐれた者の一つの根拠ではないでしょうか。さらに、誕生前の彼の使命が語られます。「イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。」不思議な使命です。イスラエルの子等は神に愛され、特別に扱われてきた歴史があります。それにも関わらず、どうでしょうか、彼は、イスラエルの神である主に、民を立ち返らせる使命を帯びていると言います。

神に返る

エジプトからの解放以来、シナイ山でのみことばを受け、神殿祭儀の取り決めに従い、幾多の預言者のみことばを聞き、ありとあらゆる体験を神との関わりで持ってきた民が、神である主に立ち返るはなしです。神に背を向ける民、その罪が神に愛されてきた者たちのなかで起こります。御名を唱え、讃え、神と共に歩んで来た民が実は神から離れていたのです。口先では神を語り、こころでは離反し、そして、立ち返りへの使者無しでは神に返ることが出来ない状況になり果てます。

イスラエルの民だけの問題ではありません。いつの時代も罪の嵐は吹き荒れます。みことばを聴き、礼拝生活しつつ神を讃え、祈り、捧げるただ中にありながら、この信仰者を神から引き離す、キリストのからだから引き剥がそうとする罪の嵐は吹いています。神の真実に、愛に、そして神ご自身に背を向け、不誠実な者に堕落する状況は絶えずあります。私たちはこの実態を日々痛く体験しています。神の民と呼ばれるイスラエルだけがそうではないのです。地の果ての民、この地で信仰に生かされる者たちに険しい闘いがあります。神は、イスラエルの民へ、そして私たちに、ヨハネと言う、御前にすぐれた者となる使者、預言者を遣わします。それにしても、すでに成人している者を遣わすのではなく、母の胎内より備えられる意味は何だろうかと考えさせられます。人が地上で歩む身となり、その人に徹底して寄り添い、愛してくださる主の意志を担う使者の姿がここに現れているかもしれません。

誰にでも使命がある

彼の使命は、主イエスの前ぶれとして民を神に立ちかえさせるものです。第一にそれが、父たちの心を子どもたちに向けさせることです。これも不思議です。父たちを子どもに向けさせることが何故神に立ち返ることなのかすんなりは分かりません。でもそうさせることが大事です。それは、父母を敬いなさいと教えられた神の意志がなるよう歩むことが大事だからです。敬われる父として果たすべき業をすることが大事な一歩であると言うことかも知れません。父なる神の教えを第一歩とするとき、親子の間に神の真実が現われ、親子で神体験をし、神に向き始めるからでしょう。神に向き、神を知らなければ立ち返りようがありません。

第二に、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、とあります。これは分かり易いと思います。神に逆らう者を正しい心に立ち戻らせるのです。分かり易いけれども、最も難しいことです。先の親子の心の在り様は身近なことであり、欠けたことが具体的に見え、問いやすいのです。しかし、義人の心を取り戻すことは至難の業です。人には不可能なことです。誰かの心をかえることが出来たと言う人がいたら会ってみたいと思います。誰かの影響で職業選択や、辛さの気分がかえられたと言う人はいるでしょう。しかし、ここは、御前で義人の心にかえられることです。人には出来ないから、エリヤの霊と力のことわりがあり、誕生前から御霊に満ちる存在であったと言葉が添えられているのです。主なる神の霊により、主の御手として用いられるヨハネが父たちの心を子に、逆らう者を義人の心に戻らせます。その業が、民を主のために用意することになります。

問い、見える

神の御計画を聞くザカリヤは問います。不安の出来事から喜びへと展開し、そして、与えられる子がすぐれた者となると聞き、その中身をいろいろ聴くことができました。やがて父となるザカリヤは有頂天と言うわけではありません。良く聴いたうえで、なお問います。約束の使いにさらに問うのです。それは主なる神に問うことです。これは大事な態度と言えます。とことん神に問い、みことばをいただくことはわたしたちの存在の根にかかわることです。聖書にとことん取り組む態度と同じです。みことばがわたしたちの存在を支え生かす唯一の根拠だからです。

ザカリヤは後に引かず聞きます。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」聞き方も必至です。ザカリヤも妻も後が無いのです。切羽詰っています。率直です。見習うべき態度です。それに御使いは応答します。問うかぎり答えが聞こえます。信仰者の祈りのすべては無駄になることは無いと聞いたことがあります。祈り続け、祈りの生涯をおくった信仰者の確信的言葉です。祈りの人、主イエス・キリストの生涯を見る私たちには納得出来ることです。

御使いは、名を告げ、使命を告げ、喜びのおとずれを伝えるよう遣わされたことを伝えます。主なる神が背後におられることを伝えます。喜びのおとずれを伝えると御使いは語ります。やがて誕生する子は喜びのおとずれとなります。喜びのおとずれは福音とも訳されます。福音は良き訪れ、良き知らせという意味です。当時は、王室に王子が誕生したとか、姫が誕生した知らせがそうです。また、戦場で勝利した知らせも福音という言葉が使われました。福音が聖書に登場するときには人を変え、人生を変え、社会を変え、世界を変えます。御使いの良い知らせがヨハネの福音となり、そのヨハネが来るべき福音中の福音到来の先駆者となります。世界が神のものとして回復してゆく、変わり始まる初めが展開しようとしています。

約束に生きる

そのなかでショッキングな答えが聞こえます。「見なさい。これからのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。」見なさい、の言葉が用いられるとき、人類がいまだ体験していない神の御業への注意喚起、呼びかけを示唆する場合があります。見るべきこと、めざましい神の御業を見なさいです。見なさいの呼びかけは、自分の思いや考えで見るのではなく、神を信じて見ることです。神のご意志で見るのです。神がなさろうとしている業に思いを委ね見るのです。そうすれば、神の偉大な御業の真実を見ることができます。

見なさい、の後これからのことが起こるまでは、とあります。神の業が起きるまでです。それを見なさいと言うのです。見るあなたは、もの言えない者となるのです。しるしを見せてくださいの答えです。喜びの知らせ、すぐれた子の誕生の約束です。期待一杯で周囲に話したい、なによりも喜びを妻と語りながら、約束が現実となる日を待ちたいでしょう。それが一切出来ないと言うのです。理由は語られたことばを信じなかったからです。みことばを信じませんでした。ザカリヤは証拠を見せろと詰め寄ったのです。見るのではなくみことばを信じなさいと言うことです。見なさい、神の御業を、と御使いがザカリヤに言ったのは不信仰を憐れんだ言葉であったかもしれません。

沈黙のまま、ときが来ると御業が成る約束を胸に待望します。みことばのとおり不自由な生活に入ります。喜びと楽しみの中に訪れた予想外の日々です。神は祝福と同時に試練を与えました。人の弱さ、罪深さ、不信仰のゆえにもたらされる試練です。この試練ゆえに、夫妻はさらに神に信頼し、みことばを聴く耳を研ぎ澄まされてゆきます。聴く耳のたしかさは、やがてこの家族を襲う苦難を乗り越えるちからとなります。

神殿の外ではザカリヤを待つ人たちがおります。なかなか出て来ないので不思議に思っていました。神に祈ってはいましたが、予想通りにことが運んでいないから怪訝に思ったのです。無言のザカリヤを見て、人々は幻を見たことをわかったとあります。言葉にならない経験をしたことを察知したのです。人々が直ぐ分かったのは驚きです。祈りを共にするということは、兄弟姉妹に起こっていることをこのように分かりあうことかも知れません。いずれにしろ不思議なことです。とうのザカリヤは合図を続けるだけで、口がきけないままでした。神殿で起こった喜びの訪れを受けた者の沈黙に、私たちはさらにこころを開き、主の御計画に注目し続けます。沈黙の中、確実に進む神の御計画にこころの耳を傾けます。

戸村甚栄伝道者の記事

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