エリサベトとマリアの出会い

戸村甚栄 蕨キリストの教会

ルカが焦点を当てる女性たち、エリサベトとマリア

ヨセフが多く登場するマタイ福音書と異なり、ルカ福音書はエリサベトとマリアが多くの場面で描かれます。マタイは当時家父長制のなかで起こった不思議なことからマリアを守り、家族を守るヨセフにひかりを当てたかもしれません。ザカリヤの家に行って、と書かれるように家長が重んじられていたことがわかります。ただ、マリアが立って、山地のユダの町に急いだとあります。彼女がひとりで行ったのか、ヨセフが付き添ったのかはわかりません。それは重要なことではなかったでしょう。受胎し間もないマリアであるならば旅はそれほど苦ではなかっただろうと思います。いずれにしても、ルカの描き方にはザカリヤとヨセフは不在です。

ルカは女性にひかりを当てます。異邦人ルカ、ユダヤ社会で片隅に追いやられていた者が、性的差別にある女性にひかりを当てたことには意図があるかもしれません。尋常ではない過程をへて、子どもを宿す体験をしている二人の女性、神のご計画を、身をもって体験する二人です。神の恵みが注がれ、御霊の働きで胎に宿った子を日ごと見守る女性たちです。神のご計画のそばに立つのでなく、遠巻きに見るのでもありません。エリサベトとマリアは神のご計画の真っ只中に生きています。ご計画が日ごとの歩みとともに前進します。神の働きを体感する日々はどのようなものであったか想像したくなります。そして思うのです。キリストの霊が宿るキリスト者の日々はと。

神のご計画の中にいる日々

キリスト者が神のご計画の真っ只中に立つ体験はどのようなものでしょうか。神のご計画の前進を身に覚え日々を歩む感覚はどのようなものでしょうか。その一端をここに紹介することを許されたい。2000年の2月に現会堂となっている建物に私たちは出会わされました。小さき群れでありましたが、さっそく建物の購入の是非の決をとりました。なんら経済的根拠がないままでした。しかし皆が建物を見て購入したいということになりました。あとは神のお計らいに委ね前進しようと一歩を踏み出しました。皆様のお祈りとお支えのなか、その日から購入日の3月までそれぞれが出来ることを果たし、東奔西走しました。

業者との打ち合わせ、法務局や役所との話し合いが突然始まりました。経済の備え、すべて初めての体験が一挙に起こりました。2月から3月の間無我夢中、通常ではあり得ない力のほとばしる期間でした。駅近くの会堂へ兄弟姉妹がこぞって力を出し夜中の引越しを敢行しました。その日々に感じたのは、先ず神が前進しておられることです。私たちは恵みの竜巻に巻き込まれた感覚です。筆者は会堂購入のために出向いた先々で、すでに先んじて働かれている神の力を感じ、驚き、感謝しながら慣れない事柄と取り組んでいました。慣れようがありません。神がなさる業ですから。神が起こしてくださった恵みの竜巻感覚は今も体が覚えています。当群れに限らず、このような神体験、恵み体験は御業に触れた諸教会、諸兄弟姉妹共通のことでしょう。

エリサベトとマリアの出会いと信仰

二人の女性が歩んだ日々、体のうちで進む神の御業体験は言語で言い尽くせないものであったと想像します。その出来事をルカは私たちのために記録しています。

エリサベトとマリアの出会いと信仰

マリアは信仰によって立って行く

「マリヤは出かけて、急いで山里に向い、ユダの町に行った。」マリアは立ちます。いいなずけの身で覚えのないことに遭遇します。出来事を伝える御使いと必死の問答をしました。みことばを聴き、神を礼拝しました。マリアは立ちます。簡単には立ち上がれないショックな出来事です。直ぐには立ち上がれない出来事です。

しかし、マリアは立ってとあります。揺ぎ無い立ち上がりの根拠は聴いたみことばです。「神にできないことは何一つない。」だから、立ち上がります。立ち上がるみことばは、よみがえりとも訳されるものです。みことばに聴従し、新たに生きる日となります。聴いたみことばの真実を、身をもって生き、確信から確信へと進む日が始まります。神の真実を体験する日々です。御霊の働きを胎に宿し立ちます。御霊の働きの実が結ぶことを信じ立ちます。立って山地にあるユダの町へ向います。受胎した後いつ頃か分かりません。体調維持に大切な時期、さらに言えば密やかにことを進めたい時期、山地におもむくのです。医者ルカなら山地行きを止めたかもしれません。マリヤは急いだとあります。なおさら無理しないでと言いたいところでしょう。しかし、山地であろうが、どこであろうが急いで行きたいのです。

マリアとエリサベトの出会い

急いで行きたいわけがあります。御使いがエリサベトの名をあげ、彼女に起こっていることを告げたことを知りたい、この目で確かめたいと足を急がせたでしょう。共に御使いのことばを聴き、御霊による同様な体験者です。特別な将来を抱く、みことばに聴く同士です。みことば体験、聖霊体験をしている二人の出会いへの期待は山地を駆け上がるほどです。マリアがエリサベトにあいさつすると、それを聞いたエリサベトの胎内で子がおどったとあります。マリアとエリサベトが互いのあいさつに喜んだのは想像できます。しかし、ルカはその喜びを記す前に、胎内の子が踊ったと書きます。エリサベトは胎内の子の手と足、からだが踊るように動いたでしょう。どんな喜びであったでしょう。エリザベトツは御霊に満たされたとあります。

エリサベトは主の御業に感謝する

エリサベトは歌うように語り出します。主の御業を賛美します。聖霊に満たされた者の姿です。

エリサベトの祝福の言葉

「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」

祝福のことばを語られたときには、マリアにとまどいはなくなっています。エリザベツが語るままに聴きます。エリザベツ自身が祝福されたにもかかわらず、マリアこそ女の中の祝福された方と宣言します。同時に胎に宿すいのちも祝福されていると、同様なからだをかかえる者からの宣言です。こころ強いものがあったでしょう。それも、聖霊に満たされた者の口からのことばです。祝福のみ告げです。

祝福の中身がエリサベツの続くことばに現されます。エリサベツの主がマリヤの胎内にいることを告白します。エリサベツは、私の主と言い、その母が来られたと驚きを隠せません。エリサベツが出向くのではなく、主が母マリヤに連れられて山間の家に来てくださったのです。主が来られたと言っても許されるでしょう。神殿で礼拝する時代が続いていたなか、礼拝されるべき主が来られるとは驚きです。いままでの神殿を軸とした想像力ではわかりかねる出来事であったでしょう。しかし、この地への主の訪れはすでにマリアという、ひとりの女性を通して起こりつつあったのです。主のところに行く時代から、主が来られる時代へ、エルサレムではなく山地の二人の女性の間で起こっていたことは不思議としか言えません。神の御業は神秘です。人の想像力では届かない、主の謙りが栄光に満ちます。

エリサベトの感激の言葉

エリサベトがマリアのあいさつを聞いたときの聖なる感動を繰り返します。「ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。」少し口調が変わります。先には起こる事に捉えられたまま語り出しました。ここは、いまさっき身に起こったことの様子を細かく思い起こしマリアに語ります。「ほんとうに」の直前には「見よ」の言葉がありますが訳されてはいません。神の御業を「見よ」と驚きをもって自分に起こったことをマリアに語ります。「見よ」に続き「ほんとうに」というのです。このほんとうには、このことが原因でということです。マリヤのあいさつがエリサベトの耳に入ったことがきっかけで、エリサベトの胎内の子どもが飛び跳ねて歓喜しました。我を忘れるほどの喜びです。ただごとではない喜びようです。

ふたりのあいさつの言葉がどのようなものであったか記録はされていません。しかし、マリヤのあいさつをきっかけとしてエリサベトは聖霊に満たされ、子どもの歓喜が体に響きます。みことばを聴く同士が会い、ことばを交わすとき、聖霊の賜物をすでに受ける者たちがさらに満たされ、出会いの歓喜に包まれます。すでに主イエス・キリストと歩む者たちが二人、三人集うところに主がおられると約束されたことに通じるような体験です。信仰の仲間が会うときこころが動かされるでしょう。礼拝の場がそうです。

エリサベトとマリア 信仰の分かち合い

また、たとえ、直接会うことでなくても、信仰者が便りを交わすときはどうでしょうか。私たちの群れでは時々寄せ書きで便りを送ります。ご返事をいただき、礼拝後に兄弟姉妹に紹介するとこころが温かくなります。御霊の交わりです。メールを交わすときはどうでしょうか。勿論ビジネス・メールではありません。祈りを通し、神の御前で離れた信仰の友に会うときはどうでしょうか。主イエス・キリストを讃え、分かつ出会いです。ルカがしるした二人の女性の出会いは特別です。

確かに特別です。エリサベツは告白します。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」主のことばは必ず実現しますと聖書が宣言していることを私たちは知っています。しかし、ここでは、知っている人は、ではありません。信じる人です。それも信じきった人です。他の誰も信じないことを、わたしが信じるから、わたしの信仰力により、信じきるのは幸いということではありません。そうではなく、主のことばは必ず実現することを受け入れ、委ねること、それが信じきった人です。信仰は変わり気で、浮き沈みの激しいわたしにあるのではなく、不動・不変の主にあるということです。 だから、主の語ることは必ず実現するといえます。だから信じきれます。その人は、言い表せないほど幸いです、とエリサベツはマリヤを前に宣言します。幸い、とは自分がそう思うとか感じることではなく、周りの人が当事者を見て、見るからに幸いであると感じることです。自己評価の幸いではなく、他者評価の幸いです。それも、御業にとらえられている者、御霊に満たされている者に反映する幸いです。マリヤを見たエリサベツが告白する幸いです。マリヤ自身のことばは未だです。そのことばを次回まで待ちます。

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