コンテンツへスキップ 投稿日:2022年3月20日/更新日:2023年5月7日

クリスチャンと仏教の慣習

読者の方から「クリスチャンは仏教の慣習にどのように対応するか」という質問です。これは日本では避けて通れない道です。クリスチャンと仏教の慣習について考えてみましょう。

1世紀のギリシャ宗教の慣習は、仏教の慣習と非常に似通っています。ギリシャ宗教の偶像礼拝に対して、クリスチャンがどのように対処すべきかが、1コリント8章と10章には書かれています。最初に、1コリント8章と10章を解説します。もし聖書をお持ちであれば、1コリント8章と10章を読みながら考えてみましょう。

1コリントの手紙 歴史的文化的背景

古代コリントは、紀元前数百年前から栄えた貿易港をもった商業都市でした。アテネから西へ数十キロのところにあります。またコリントは、古代ギリシャでは多くの偶像が造られた都市として、ローマ帝国全土にその名をとどろかせていました。そんな所ですから、偶像礼拝は住民たちの生活の一部であったのです。つまりすべてのコリントの人々は、普段の生活の上において何らかの形で「神々を崇める宗教」に関わるざる得ませんでした。 たとえば、偶像に捧げられた肉が、食用の肉として市場で売られているのです。迷信深いギリシャにとっては、これは聖なる肉です。

コリントのクリスチャンたちも、この肉を買うことができたのです。しかし、彼らはその肉を買うべきか迷ったでしょう。コリントのクリスチャンは、改宗する前に偶像礼拝者だったからです。パウロは、このような偶像礼拝者に宣教したのです。その後、パウロは、手紙によって彼らが直面している数々の問題について知らされ、コリントの教会へ手紙を書きました。偶像礼拝はその問題の中の一つです。パウロは、1コリント8章と10章でこの問題を取り扱っています。

1コリント8章

パウロは、コリント教会における偶像礼拝の問題が、争いの種の一つになっていることを知っていたので、最初に警告ともいえる言葉でコリント教会の人たちを諭します。人は自分が知っていると思っている知識によって、おごり高ぶったりしますが、パウロはこのような態度は愚かな者のすることであると言及します。むしろ愛によって人の徳を高めなさい、人の信仰を高めるようなことをしなさい、と言うのです。 コリント教会には偶像に関する限り、2種類のクリスチャンがいたようです。

  1. 偶像は単なる物質に過ぎず、偶像の神など存在しないと認識していたクリスチャン。
  2. 改宗前に偶像礼拝をしていて、改宗後もまだ偶像に対して多少の信仰を持っているクリスチャン。

実際に、パウロは偶像に捧げられた肉を食べても、何の得にも損にもならないと明言しています。なぜなら、偶像の神などいないからです。しかし、このような知識をもっていないクリスチャン、または本当の神への信仰がまだ弱いクリスチャンは、まだ偶像の前では誘惑の罠にかかっていたかもしれません。信仰の強いクリスチャンが、偶像の宮で偶像にささげられた肉を食べているのを、信仰の弱いクリスチャンが見たらどうでしょうか。パウロは問いかけます。当然、信仰の弱いクリスチャンはもっと迷ってしまうでしょう。さらに、クリスチャン信仰を捨てて、偶像礼拝に戻ってしまうかもしれません。 ですから、パウロはもし他のクリスチャンにつまずきを与えるのなら、偶像に捧げられた肉は決して食べないと断言します。

1 コリント10章

最初に、パウロは旧約聖書を引用して、偶像礼拝の愚かさと神の裁きについて言及します。イスラエルの人々は、神の恵みを受けていたにもかかわらず、神の教えに逆らって滅ぼされてしまいます。

彼らが神の裁きを受ける理由は、彼らが生ける神を礼拝していても、同時に偶像礼拝にふけっていたからです。 パウロは、「この例からわかるように偶像礼拝を避けなさい」と戒めます。生ける神と偶像を同時に礼拝することは、できません。クリスチャンがもしそれを行おうとすれば、神はイスラエルに与えた同じ裁きを、クリスチャンにも下すのです。

偶像は、悪魔によってだまされた人たちが、つくったものに過ぎません。偶像そのものには、何の力もないのです。なぜなら、偶像は、単なる石や木などといった物質に過ぎないからです。

パウロは、偶像そのものに何の力はないけれど、偶像を拝むその行為が悪魔のわざであると明言します。だから、他の人に偶像礼拝の罪を犯させないために、クリスチャンは躓きの石を置いてはなりません。信仰の強いクリスチャンはが、信仰の弱い人の前で偶像に捧げられた肉を食べたら、信仰の弱い人は躓いてしまうでしょう。だから、パウロは、他の人の躓きにならないように食べてはいけないと諭しています。

クリスチャンが仏教の葬式に行く場合

クリスチャンと仏教の慣習

日本人がクリスチャンになると、多くの問題に直面します。その一つが仏教式のお葬式に出席した場合です。日本の葬式では、一般論ですが、死なれた方は御仏になると言われます。または成仏されるようにと、お葬式が行われます。私が幼少の頃、親類が亡くなった時など、「おばあちゃんの霊を寂しがらせてはいけない」と、一晩中起きていたのを覚えています。亡くなられた方は御仏ですから礼拝の対象になりますから、仏壇に向かって「今日も守ってください」と祈るようです。このような日本文化の中で、クリスチャンは、どのようにお葬式に出席したらいいのでしょうか。

  • 仏像、亡くなられた方には、何の力もありません。生ける神以外に、本物の神はいません。偶像は、人間の手によって造られたものに過ぎないのです。
  • 仏教葬儀に出席すること自体に、何ら罪はありません。
  • その知識をもったクリスチャンは、たとえ仏教葬儀に出席したとしても、亡くなれた方を礼拝することなどしません。1コリント10章によれば、それらを礼拝すること自体、悪魔を礼拝すると同じであるからです。
  • しかし、すべてのクリスチャンが、このような知識を持っているわけではありません。

では仏教葬儀に出席した場合、どのように振舞えばいいのでしょうか。他のクリスチャンの躓きになるような言動、行動は慎まなければなりません。また、親族の方々に失礼があってもなりません。自分の良心のためではなく、他のクリスチャンの良心のため、クリスチャンではない方々のために、どのように行動したらよいのでしょうか。

他のクリスチャンが出席している場合

その他のクリスチャンに躓きにならないように、自分の信仰を説明しておきます。自分の言動や行動を見習ってほしいという意味では毛頭なく、「なぜ、私がそのような言動、行動をとるのか」の理由を説明します。信仰が強い人であっても弱い人であっても、必ず説明をしておきます。

遺族に対してどのように振舞うのか

遺族の方々とどのくらい親しい関係にあるかにもよりますが、遺族の方々に、(決して細かく説明する必要はありませんが)丁寧に自分がクリスチャンであると言いましょう。

焼香するか、しないかは、個々のクリスチャンの判断によって違うと思われます。私の場合は、焼香という行為自体が、象徴的にも亡くなられた方を礼拝する行為のように思えるので、焼香はしません。私の友人で敬虔なクリスチャンの方ですが、「焼香することには抵抗がない」と言っていました。人それぞれの良心に基づいて、信仰によって決めるべき問題だと思います。焼香するしないで、クリスチャンがお互いに裁いていたら愚の骨頂です。クリスチャンは焼香しても良いという意見をブログで書いている人。

私の場合、ただ、ご遺体の前で手を合わせ、ご遺族のために主イエス・キリストの名によってお祈りします。ご親族の方々の悲しみを理解して、決して失礼にならないように心がけます。彼らの悲しみを聞いてあげましょう。クリスチャンはクリスチャンではない方のためにも、つまずきになるようなことをしてはいけません。丁寧、親切、愛を持って接することによって伝道・宣教につながります。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。(1 ペテロ2:11-15、3:14-3:17)

パウロは偶像の都市アテネで説教をしました(使徒行伝17:22-31)。偶像の神々を信じている人たちを軽蔑したでしょうか。またはイスラム過激派が、アフガニスタンの仏像を壊したようなことをしたでしょうか。無論そんな愚かな行為はしませんでした。むしろ、パウロは彼らの宗教深さを認めて、真の神様、生ける神様に立ち返ってくださいと励ましました。

結論 仏教とクリスチャン

クリスチャンがどのように仏教と関わっていくかは、日本にキリスト教が根付かない限り、おそらく一生の命題です。1コリント8章と10章に書かれている原則を基に、クリスチャンが仏教の葬式にどのように振舞うべきかを解説しました。ご意見、ご感想などありましたら、コメント欄にお願いします。

「クリスチャンと仏教の慣習」への1件のフィードバック

  1. ウィルスンめぐみ

    私が仏教式のお葬式に参列しなければならなかった時は、お焼香をする番になった時には、焼香台の前に行って、焼香の代わりに、心を込めて、でも声に出さずに『残された方々への慰め』『その場にいるまだ救われていない方々の救い』を祈りました。これに対して、とても丁寧なお礼を言われたことが何度もあります。

    『形だけのことをしている』と思われなかったからではないかと思っています。

    私をクリスチャンだと知っているご家族の場合は、少し早い時間に行かせて頂き、心を込めて、慰めの気持ちを申し上げて、先程のことを先にさせて頂いて退出しました。

    大切なのは、形ではなく、心です。
    もちろん、その場だけではなく、お亡くなりになったお知らせがあった時から、残された方々の慰めと救いを祈ります。

    クリスチャンは、そのお葬式の場に、神様から遣わされて、その場にいる方々に、違う生き方をしている人達がいることを伝える使者なのだと思っています!!

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