コンテンツへスキップ 投稿日:2022年6月20日/更新日:2023年5月7日

エペソ2章11-22節。人類の救い

エペソ人への手紙2章11-22節の解説。神の救いの計画はイスラエルの信仰の父、アブラハムから始まりました。この救いは、イスラエルの民だけに限られているのでしょうか。そうではありません。イスラエル以外の民族である異邦人も、神の救いの計画の一部として含まれているのです。この真理を解説します。 

聖句の構成

2章1節―10節は、人はどのように救われたのかを説明しています。すなわち、人は神の恵みによって信仰を通して救われたのです。神の御前にあっては誰も誇ることは出来ません。すべての人間は、罪を犯し神の栄光から離れてしまいました。誰一人として「自分自身の良い行い」ゆえに「神の救い」を受けたとは言えません。この文脈に沿って、2章11節―22節を読むべきです。

あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

エペソ2章11-22節 聖書協会

エペソ人への手紙を理解するうえでもう一つ重要な要素として、手紙の受取人が異邦人であることを忘れてはなりません。パウロは、教会の人々に救いの計画を詳しく説いただけではなく、異邦人がユダヤ人たちと同様に神の子供として受け入れられた事実を2章11節―22節で解き明かしているのです。ではその内容について詳しく考えてみましょう。

ユダヤ人から見た異邦人の立場

異邦人もユダヤ人も、人間として「神のかたち」として創造されたことに変わりはありません。両民族とも神の恵みを受けています。アブラハムの女奴隷、エジプト人ハガルを例にとってみましょう。ハガルは、言うまでもなく異邦人です。不妊の妻セラの代わりにハガルは、アブラハムのために子供を生みました。その子供がイシュマエルです。そんな異邦人母子に、神は声をかけられ祝福しました(創世記16・8、21・17―18)。ハガルとイシュマエルは、神の契約に預かる民ではありませんでしたが、神の恵みと憐れみの祝福を受けたのです。

しかし旧い契約の時代には、異邦人たちは神から遠い存在でした。神の契約に預かることも出来ず、神の御言葉も知らない状態だったのです。個々の時代によって度合いは異なりますが、イスラエルの人々は総じて異邦人との付き合いを絶とうとしていました。エズラ・ネヘミヤの時代が頂点であったかもしれません。

中間時代に入り国家を失ったユダヤ人たちは、神の民としてのアイデンティーを守るべく、律法に基づく言い伝え、あるいは伝統を確立していったのです。本来、民族を二つに分けるのは無理なことです。その無理をユダヤ教の教えは可能にしてしまったのです。

この2分化した世界観をもったユダヤ教社会であっても、ギリシャ・ローマ文化に迎合しようとするユダヤ人もいました。一方、ユダヤ人たちの誇りとプライドにかけて、自分たちの宗教を命賭けで守った歴史も見逃せません。結果として、ユダヤ人から見た世界観として、ユダヤ人=神の民であり、異邦人=神の民ではないという区分けが出来てしまったのです。

キリストにあるユダヤ人と異邦人の一致

エペソ人への手紙2章11節-22節の解説

しかし天からひとり子が降りてきて、ユダヤ人マリアをとおしてイエス・キリストは生まれました。イエス・キリストは、律法を廃棄するためではなく、成就するために十字架にかけられたのです。キリストは、旧約の時代に与えられた律法の真の意味を解き明かしたとも言えます。また「あれはダメ、これはダメ」といった殻を打ち破り、愛によるキリストの律法をわたしたちに与えてくださいました。キリストは、ユダヤ人と異邦人を分け隔てている壁を壊して、自らが十字架に打ち付けられいけにえとして死ぬことにより、すべての律法に終わりを告げたのです(ローマ10・4)。

しかしながら、無割礼の異邦人たちが、どのように創造主なる神との関係をもてるのでしょうか。聖書を手にしたこともない、見たこともない異邦人がどのように神の恵みに預かるのでしょうか。まずは、キリストを信じることから始まります。この信仰の真理は、ユダヤ人たちにとっても同様に当てはまります。主キリストの御前では、ユダヤ人も異邦人も皆同じなのです。この方を信じる人は誰でも、神の子供としての権利が与えられるからです(ヨハネ1・12)。ご利益宗教のように、人間が与えて神々が返すといったギブ・アンド・テイクの関係ではありません。神の一方的な愛が、人に降り注いだのです。人はその愛に信仰によって応えればよいのです。

この救いの業に預かるのに、国籍、人種、性別、貧富の差、身分、肌の色など関係ありません(ガラテヤ3・27-29)。これらの人間的なすべての壁を、キリストは打ち壊してしまったのです。実は、ここに福音のメッセージのすばらしさがあるのではないでしょうか。いつの時代でも、人間の思想、哲学、宗教は人間たちを分裂させます。社会的な地位も人間社会に壁を作ります。貧富の差も社会を分断します。同じような社会的地位の人たちが、同じような趣味をもってお付き合いをするのは、罪で満たされた世の中の自然な流れとも言えるでしょう。ところがキリストは、これらの人間が作り出してしまうすべての壁を壊して、分け隔てをなくしたのです。どんな罪深い過去を背負っていようが、また犯罪を犯してしまった過去をもっていても、キリストを信じてクリスチャンになる弊害にはなりません。

私は宮城刑務所にいる方と数年間文通をしていましたが、この方の罪は被害者の目から見れば極悪非道なものでした。しかし神の救いの御業に、人間の過去は関係ありません。彼は人間が定めた法律に従って罪を償い、21年間の刑期を終えました。その後、主イエス様の名によってバプテスマを受けました。

どんな過去をもった人にでも、主キリストは人生の勝利を与えてくださいます。ハレルヤ、感謝します。主キリストは、すべての種類の人間を集めてくださいます。これが神の家族です。分け隔てなくお付き合いを出来る神の民の共同体です。主キリストは、すべての種類の人々を呼び起こし、一致させる力を持っているのです。

教会における一致

主キリストにおいて一つになることは、キリストのからだである教会ぬきには語れません。教会における一致について4章の注解で詳しく言及しますが、ここでは手短に2章の最後の聖句から説明しておきます。この章の終わりに次のように書かれています。

キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。(エペソ2・21―22)

聖書が定義する教会とは、物理的な建物ではありません。キリストの体からなるクリスチャンの共同体を指しています。しかしパウロは、この聖句では教会を建物にたとえています。建物の柱や壁がお互いに支えあっているように、教会も聖霊で満たされたクリスチャンがお互いに支えあう共同体であると説明しているのです。

パウロは、3章で教会の役割とミッションに言及して、さらに4章でキリストにある教会の一致について非常にわかりやすく説明しています。どちらも21世紀のクリスチャンにとって重要なテーマです。大いに学ぶべき点があります。この注解を書くにあたって大きな期待感と同時に、正しく注解すべき責任を深く感じています。読者の皆様にとって少しでもお役にたてる記事を書いていきたいと思います。

読者の皆様に主キリストの豊かな祝福が宿りますように。

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