コンテンツへスキップ 投稿日:2021年4月6日/更新日:2023年5月4日

キリストの死からの復活は事実か?

主イエス・キリストの死からの復活は事実か、歴史的に本当に起きたのでしょうか。なぜキリストは復活されたのでしょうか。そんな疑問を多くの方々が持っています。御茶の水キリストの教会のメンバーだる鈴木敦博さんが、率直にまた正直に疑問に答えてくださっています。

それはいつなの?

イエスキリストは今からおよそ2000年前の人です。西暦は、イエスキリストを起源としています。イエスキリストは、過越の祭りの時期の安息日の前日である金曜日に十字架にかけられ、日曜日の朝に復活したと言われています。カトリックの教会等で祝われるイースター=復活祭は「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」とされ、2022年は4月17日です。

ちなみに、イエスキリストが十字架にかけられたのは、AD30~32年と言われており、その頃の暦から推測すると、4月7日から10日の間に復活したのではないかという説があるようですが、現代と異なり、当時の太陽暦はまだ安定しておらず、うるう年のルールも明確ではなく、「おそらく、ひょっとして」との前提付きの推測のようです。

どうしてなの?

今の時代も、当時も、私たち人間の最終的な心配事は、「死んだらどうなるの?」ではないでしょうか。若いうちは、自分の死をあまり考えず、永遠に生きられるように感じてしまうかもしれません。私たちは、いつか必ず死にます。その日を知らないだけです。仮に、死ぬ日が判っていれば、長いか短いかは別として、残りの日数は判ります。知ることができるのであれば、知りたいと思うかもしれません。

聖書では、イエスキリストが復活したと書かれています。聖書には、「イエスキリストの復活は、この世での命のよみがえりだけでなく、天の国に入れて頂ける永遠の命の証拠である。」ことが書かれています。死んで終わりではないというのは人類の永遠の、最終的な希望です。

どんなふうに復活したの?

復活の具体的な様子は、聖書に書かれていません。イエスキリストは、金曜日に十字架の上で死んだ後、お墓に葬られます。イエスキリストといつも一緒にいた女性たちが、日曜日の早朝にお墓を訪れると、そのお墓はからっぽであったと、聖書には書かれています。

その後、イエスキリストは、女性たちや、弟子たちの前に現れます。女性たちは、すぐにイエスキリストであることが判って信じたと書かれていますが、男性の弟子たちはなかなか信じることができませんでした。中には、十字架の上で槍に刺された脇腹に手を入れてみないと信じないと言った弟子もいました。しかし、幽霊のようではなく、実体を持った復活であったようです。

聖書にはこのように書かれていますが、実際にどのように復活して、どのように天に昇ったのか、私は見ていないので説明はできません。私たちは知りたくなりますが、ゾンビのホラー映画ではないので、大切なことはそこではなく、私たちが死んで終わりではないということだと思っています。

復活って、本当なの?どうして信じられるの?

聖書だけでなく、昔のギリシア神話をはじめとして古い本には、にわかに信じがたいことがたくさん書かれています。私自身も、最初に聖書を読んだ時は半信半疑で、合理的とは言えないと思っていました。聖書も他のおとぎばなしと同じで、人を驚かせる創作物語なのではないかと思っていました。

しかし、聖書には、イエスキリストの復活以外にも、たくさんの美しい「ものの考え方」が書かれていて、それは、人間があるべき心の姿として、道徳の教科書として、非常に優れていると思うようになりました。例えば、「敵と戦うのではなく、敵を愛しなさい」という言葉は、現代にも通じる美しい真理ではないかと思います。仮に2つの国が争って、戦争をしていても、それぞれの国には心優しい普通の人々が住んでいて、それぞれの国の兵士にはその親や兄弟や友人がいて、誰かが戦闘で死んだ場合、多くの人々が悲しむのです。仮に戦争がなければ親しい友人となったであろう人々が、相手に武器を向け合うのです。

日本も、かつては鬼畜米英と言って戦いましたが、今は親しい友人となっています。人間は、有史以来、現在に至るまで、愚かな戦争を繰り返しています。しかし、人間のひとりひとりが、「敵を愛する」言葉を実践すれば、戦争はなくなり、平和な地球になっていたのだと思います。

聖書には、他にも、非常に上品な美しい「品格の高い」言葉がたくさん書かれています。これは、他のおとぎばなしとは全く違っています。聖書を読めば読むほど、だんだんと、「このような教えは人間に書けるものではない」と考えるようになってきます。古今東西、いかなる道徳や哲学や他の宗教の書も圧倒する、極めて「品格の高い」言葉です。

そうなると、ひょっとして、一緒に書かれているイエスキリストの復活も本当なのかなと思い始めます。そうして、聖書を読んで、教会に行って、聖書の全体を流れる思想の流れに引き込まれて行きます。私はその中で、聖書は神様のことばであるということは本当だなと思うようになりました。

ですから、イエスキリストの復活を証明しなさいと言われても、みなさんの目に見えるような方法では、私にはできません。でも、例えば、誰かが洗礼(バプテスマ)を受ける時、クリスチャンとして多くの働きをされた方がお亡くなりになった時、そんな時に私には神様の力が見えると感じます。聖書に書かれている美しい品格に満ちたことばが、その証拠なのかもしれません。

みんな洗礼(バプテスマ)を受ける時にどのように決心したの?

人さまざまなので、一言では語れません。でも、これだけ聖書を勉強したらOK、とか、これだけ礼拝に出席したらOK、といった基準などはありません。初めて行った伝道会で決心して、そのまま一生、教会生活を送った人もいますし、何十年も教会の礼拝に出席しながら洗礼(バプテスマ)を受けない人もいます。

よく、「私にはまだ、その資格がありません」と言う人がいますが、資格を問われるものでもありません。唯一必要なことは、「イエスキリストを救い主として(将来を含めて)信じたい」という真摯な気持ちです。

洗礼(バプテスマ)を受けたら、一生、立派なクリスチャンにならなくてはいけないのでは?

例としてはふさわしくないかもしれませんが、結婚と似ているかもしれません。

始めて会って、ひとめぼれして、そのまま仲良しの夫婦として生涯を遂げるひともいます。すぐに離婚してしまう人もいます。すぐに離婚して、しばらくしてまた同じ人と再婚する話も聞きます。

洗礼(バプテスマ)を受けて、一生、クリスチャンとして生活することが望ましいのですが、中には一生続かない人もいます。でも、私たちは人間ですから、時に疲れ、時に迷い、時に道を間違えてしまいます。一生の間、全く過ちがない人はいませんし、正しい道だけ歩む人もいません。皆、悩み、迷い、遠回りします。

しかし、イエスキリストは、放蕩息子のたとえでその真理を語っておられます。それは、親を裏切って、財産の一部をもらって旅に出て、やりたい放題の放蕩をして、そして財産を使いきり、やむなく親の元に帰ってきた息子を、父親が大歓迎するという話です。そこでは、「死んだと思っていた息子が帰ってきた」と大喜びする父親を、神様と一緒であると説明しています。私たちは、みな、放蕩息子と同じで、時に父なる神様から離れてしまうことがありますが、思いなおして帰ってくると、大歓迎してもらえるのです。

主イエス様は、いつも私たちを招いています 

私たちは、この世の智恵で、いろいろ考え、悩み、今後の方針に心を砕きます。

イエスキリストの弟子たちも、主イエスの十字架によって、主イエスの人生は終わったと考えました。主イエスによって神の国が来るという期待は、イエスの死で、失望に終わったと考ました。

しかし、主イエスの復活は、信じる者が永遠の命に預かることができることを保証する大切なできごとでした。

私たちの主イエスは、死の闇に葬られるのではなく、死に勝ち、天の御国に挙げてもらえる道を開いて下さいました。その証しの朝が、主イエスの復活の朝なのです。

この時、主イエスは、自分の力でいろいろ思い悩んで心惑わせる者ではなく、素直に、単純に、素朴に、理屈抜きに、主イエスを愛し、ついていきたいという気持ちが大切であることを、最後の最後に教えて下さっています。

主イエスの復活の朝の天気は、明確には書かれていません。しかし、朝明るくなってと書かれているので、晴れの朝であったと思われます。この朝は、全世界に福音を述べ伝え、救いの道が全ての人々に開かれる希望の朝、新しい時代の幕開けの、すがすがしい朝であったのではないでしょうか。

青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。

青年は、主の御使いでした。主の御使いは、「驚いてはいけない」と言っています。それは、主イエスの復活が驚くようなことではないと言っているのです。ルカによる福音書の1章37節で、御使いは「神にとって不可能なことは何もありません」と言っています。私たちの主なる神様には、できないことはありません、だから、驚くには当たらないのだと力強く宣言しています。

そして、「あの方はよみがえられました」と言っています。そして「ここにはおられません」と言っています。ここは墓です。主イエスは、墓に縛られる方ではありませんでした。死者の居場所である墓から出て、よみがえり、神の御座の右に座られる方であると力強く宣言しているのです。

私たちは日曜日の朝を、主イエスの復活の朝で、世界中の全ての時代の人々に新たな幕開けとなる、未来への希望に満ちた、さわやかな朝として、素直な心、素朴な信仰で、感謝をもって礼拝をささげようではありませんか。

結論

このブログをお読みの皆さん、是非、一緒に聖書を読んでみませんか?きっと、聖書に書かれている品性の高いことば、品格の高い考え方に驚かれると思います。聖書には、イエスキリストの愛がたくさん詰まっています。開くと愛が噴き出してきます。

神様はイエスキリストの誕生を通して、美しく素晴らしい世界への扉を準備して下さっているのです。ぜひ、みんなでその仲間になりませんか?

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