コンテンツへスキップ 投稿日:2022年10月26日/更新日:2023年5月5日

マタイ7章1節—6節。人を裁くな

人を裁くな

私たちの人間関係は、微妙に壊れやすい。信頼関係を築くには時間がかかるが、しかし、壊すのは簡単だ。人を裁いて人間関係は壊れてしまう。5秒、10秒でできてしまう。教会も例外ではない。

私たちが霊的に生きているように、教会も生きている。生きているということは、健康な時もあれば病気になることもある。つまり、教会も健全な教会もあれば、病気状態の教会もあるのが現実だ。

病気の教会には、一つの特徴がある。それは、教会メンバーがお互いを裁き合っているという事。これは大きな問題だ。クリスチャンがさばいて良いのは魚だけだ、と誰かが言っていたが、その通りだと思う。マタイ7章1節—6節を読んでみよう。

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

マタイ7章1節—6節 聖書協会

この聖句を読んで、3つの疑問を考えてみよう。

  1. 人を裁くとはどんな意味なのか。
  2. 人を裁く人の特徴は何か。
  3. 神聖なもの犬に与えてはならないの意味は何か。

健全な教会は、この戒めを理解して実践することができる。

人を裁くとはどんな意味なのか

さて、人を裁くとはどんな意味なのか。マタイ7章15節では、「偽預言者に気をつけなさい」と教えられている。ゆえに人の行いの善悪を判断することは許されている。

さらに「聖なるものを犬に与えてはならない、豚に真珠を与えてはならない」とも教えられている。ここでも人が、善悪の観点から、人と成りをを判断すべきだと教えられている。

人を裁く人の特徴を理解すれば、人を裁く意味を理解できる。人を裁く人の特徴とは何だろうか。

人を裁く意味を理解し、そのような人にならないように気をつけよう。人を裁く人には、3つの特徴がある。

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』…だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ルカ18章9節—14節

1.人を上目線で人を見る、他人を見下げる

第一の特徴は、このような人は「上目線で他の人を見る。」つまり他人を見下げるのだ。このような人は、善の行いを意識的に行っている。そして、それを他の人たちと比べるのだ。他の人たちが物足りなく感じるのかもしれない。だから、厳しい目で他の人を見てしまう。

自分のことは棚に上げて、人の落ち度を突っつくのだ。自分の目に、大きな丸太が目の中にあるのを知らないで、他の人の目のおが屑を取ろうとする。しかし、それは無理な話だ。自分の過ちには甘く、他人には厳しくなってしまう。このような人を主イエス様は偽善者と言っている。

このような人になってはいけない。私たちは自分の罪深さを知っている。神様の憐れみを受けている。だから、他の人に対して憐れみ深く接するべきなのだ。

主イエス様は、私たちを裁く事はしない。むしろ、常に優しく私たちを招いてくださっている。主イエス様が私たちを裁かないのであれば、、私たちも人を裁くことなどできないのだ。自分の目の中に丸太があって、他の人の目のおが屑などとれるはずないのだから。まず自分が間違いを改めなければならない。

2.「私は正しい。あなたは間違っている」

第二の特徴は、「私は正しい。あなたは間違っている」という態度を持っている。自分の正しさには、自信を持っている。自分は正しいと思っているから、他の人は間違っていると無意識に思ってしまう。おもしろいことは、このような人は、自分のプライドに気づいていない。

こんな話がある。ある会社の社長が、社員の家にメガネを置いてきたと思って、その社員に電話をした。「君の所にメガネを置いてきたんだ。探してくれないか。絶対間違いないんだ。」その社員は言われるがままにメガネを探したが見つからない。それをその社長に伝えると、彼は「お前の探し方が悪いんだ。もっとしっかり探してくれ。」と言った。探してもないので、この人は、事情を説明しよと社長の家に行った。そしたら、メガネは彼の頭の上にあったのだ。これと似たようなことが世の中にはある。プライド高き人が犯しがちな間違いだ。

私たちは、自分に過ちに気づいてるか。自分の過ちを棚に上げて、他の人を批判していることはないだろうか。大いにあるかもしれない。自分の過ちに気づける人は、そんなに多くはない。

だから、クリスチャンには、切磋琢磨の人間関係がある。お互いに励まし合い、啓蒙して生きていける。主イエス様が間に入って、私たちはお互いに励まし合い生きているのだ。

3.人にレッテルをはる

第三の特徴は、「人にレッテルをはる」ことだ。このファリサイ人は、この取税人にレッテルをはった。人を裁くとは、人がどのような人か、決めつけることだ。それもネガティブなレッテルだ。

たとえば、「あの人は弱い人間だ。信仰が弱い。だから、うまくいかないんだ。僕を見てみなさい。僕はこんなに成功しているんだ。それはなぜだと思う。僕は努力しているからだよ。」のようなことを平気で言う。

裁く人がはるレッテルと主イエス様の憐れみを比べてみよう。自分が正しいと思っているから、自分が人にはるレッテルも正しいと当然考える。このようなレッテルを主イエス様は、私たちにはっただろうか。主イエス様は、「あなたは変えられる。私が助けてあげる。だから、私を信じてついてきなさい」と手を差し伸べてくれている。

人を裁くことは、教会の内でも外でもあってはならないこと。なぜなら、裁きは神様の特権事項であるからだ。

もし私たちが人を裁けば、その同じ厳しい裁きの尺度で、神様によって裁かれるのだ。憐れみを施す人は憐れみを受けるという原則がある。逆に人を厳しい目で見る人は、憐れみで受けることはできない。

神聖な物を犬に与えてはならない。さもないと、嚙みつかれる

「神聖な物を犬に与えてはならない。さもないと、噛みつかれる」の意味は何だろうか。1世紀のユダヤ社会では、犬と豚は汚れた動物として扱われていた。そのような背景で、主イエス様は例えて言っているのである。

つまり、仮に人の間違いを注意したとする。しかし、相手の人が聞く耳をもっていない人であればどうだろうか。逆ギレして、怒こるだろう。逆に噛みついてくるから用心しなさいと教えているのだ。

人を裁くな

人を裁く人にはもう一つ悲しい特徴がある。それは、自分が人を裁いているという自覚がない。裸の王様状態だ。周りの人は気づいているが、自分だけが知らないのだ。

私たちは裸の王様になっていないだろうか。だから、私たちは主イエス様を必要としている。素直に主イエス様を聞く必要がある

万が一、人を裁く人が教会にいたら、どうすればいいのか

万が一、人を裁く人が教会にいたら、どうすればよいのか。2テモテ2章23-26節に対処法が書いてある。

そのような人と議論する必要はない。忍耐強く柔和な心で接すること、これが一番だ。神様ご自身が、この人を悔い改めに導いてくださるから。悪魔の思いのままにされている人を、私たちが救い出すことは不可能に近い。だから、このような言葉が与えられている。

最初に言ったように、この世のには、健全な教会もあれば、病気の教会もある。病気の教会の特徴は、人を裁いていること。そんな病気にならないように、主イエス様に委ねて教会生活を送りましょう。

「マタイ7章1節—6節。人を裁くな」への3件のフィードバック

  1. クリスチャンが未信者の方を上目線で見ている、と未信者の方々から聞いたことがあります。そのうちにそのような態度を見るのがイヤになって、教会にも行きたくなくなったという話です。これってよくある話だと思います。確かに世の中の喧騒を見ていると、「何やってんだ?この人たち」と思わずつぶやいてしまうことがあります。これも裁きの態度です。良くないです。しかし、そのような喧騒を見て世の中が狂ってるよと叫びたくなるわけです。読者の皆様は、人を裁くことについて、どのようにお考えでしょうか。
    クリスチャンになって間もないころ、ルカ18章のパリサイ人のような祈りを、実際に聞いたことがあります。これはマズいと思いました。

  2. 正に人を裁く人がいます。それが隣家であることが厄介です。ゴミ出しをチェックします。その方の家の前が町内のゴミステイションになっています。カラスがゴミを荒らすそうです。荒らされた際の写真を町内に回覧します。私が朝1番のゴミを出しました。それがカラスに荒らされました。なぜ私のゴミとわかったのかと言うと、ゴミの袋を漁り私信を読んで私の名前を特定したそうです。ゴミ出しの時間に私が違反した訳ではなく、ただカラスが荒らすかもしれないから朝イチバンに出すなといわれました。カラス避けネットもその方が管理していて、ごみ収集時間のギリギリまで表に出しません。理由は朝寝ていたいからだそうです。私は自分のゴミ袋を開封され私信を読まれた事がショックです。人を裁く人は身近に沢山います。

    1. コメント、ありがとうございます。ご指摘されたような方が町内にいる場合、ご近所付き合いは、本当に難しいですね。「人にはそれぞれ正義がある」と昔の仕事の上司(クリスチャンではないですが)が言っていました。その方も自分の正義のためにやっているんですね。似たような方が、私たちの教会の近所にいますが、人間の知恵でいろいろ考えても仕方ないので、神様にお祈りしています。神様の愛によって、平和的に柔和に接しようとしています。

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