コンテンツへスキップ 投稿日:2021年11月14日/更新日:2023年5月4日

人生の目的。何のために生きるのか。

私たちの人生の目的は何でしょうか。何のために生きているのでしょうか。人は人生の目的を探しますが、五木寛之氏が主張しているように人生の目的は見つけることはできません。なぜでしょうか。人生の目的は見つけるものではなく、与えられるものだからです。

人生の目的

1.人生の目的は見つけられない。五木寛之氏の主張は正しい

五木寛之氏の主張ーー「人生の目的はおそらく見つからない」ーーこれは真実です。人生の目的を追い求め見つけたと思った瞬間、それは単なる錯覚だったと気づかされます。ちょうど空の雲を見て「あれが目的だ」と信じて、雲がある近くの山の頂上に行ってみると、そこには何もないのと同じです。あるのは空気中に浮いている水分だけでです。つかめるものは何もありません。人生の目的にも、同じことがいえるのでないでしょうか。

2.創造主なる神から離れて、人間に人生の目的はない

五木氏は、人の話、経験、生き方に共感を覚え、信仰としてあるいは宗教として、そこに人生の目的を見出す事ができると書いておられます。しかし、人が作ったものは、立場によって情況によって変化します。果たして、そのようなあやふやな方法で見出すことができるのでしょうか。

人間が造る物は、すべて目的をもって造られています。人間も同じではないでしょうか。私たち人間は、神によって創造されました。その目的は神だけがご存知です。私たちがその目的を決めることはできません。

3.哲学者が自殺する理由は?

ある一部の小説家は、自分の人生で人生の目的を見つけようとして、小説を書いているのかもしれません。この意味では、小説家は一種の哲学者と言えます。しかし、人生の目的は、人間が見つけようとして見つかるものではありません。結局、人生の目的を見出せないと分かった小説家は、自殺の道を選ぶのかもしれません。自殺した哲学者や小説家を数えあげてみます。

ソクラテス、ヘミングウェイ、太宰治、川端康成、三島由紀夫、芥川龍之介、有島武郎

4.人生の目的は、神によって与えられるもの

人生の目的とは、私たち人間が捜し求めるものではありません。また見つけられるものでもありません。むしろ、神によって与えられるものです。神は、天地万物を創造しました。私たち人間を「神に似せられた者」として創造してくださいました。人生の目的とは、わたしたちを創造してくださった神によって、与えられるのです。

創造主である神は、それぞれ天地万物に役割と目的を与えました。人間も例外ではありません。創造された人間の方が、自分の目的は何だ?と考えてそれを求めていくのはおかしな話です。たとえば、車は走るために製造されてますが、車の方が「いや自分の目的は自分で探す。もっと他にあるはずだ。水の中で走ることが自分の目的だ」と言って、海に入ったら故障してしまいます。人間にも同じことが言えます。

人間は、自分の力で生きているのではなく、生かされていると、考えられないでしょうか。人間は生かされている意味について説明します。しかし、私たちは、自分の力で困難を乗り越え生き抜いてきた人の人生をほめたたえます。なぜでしょうか。人は結局の所、頼れるのは自分しかいないと思っているからです。

人間は生かされている、人間の他力と自力

人間は生かされている
Photo by Michał Parzuchowski on Unsplash

わたしたち人間は、自分の力で生きていると思いがちですが、実は、神が与えてくれる自然の恵みがなければ、10分たりとも生きていけません。この地球上から空気中の酸素がなくなったことを想像してみてください。人間は10分ほどで死ぬでしょう。長く息を止めていられる人でも、30分はもたないでしょう。人間は、自分の力ですべてをゲットしていると思い違いをしています。 

私が好きな俳優に高倉健がいます。生前あるインタビューの中で、次のような事をいっていました。「生活するために、生きるために俳優になったが、今、自分は生かされていると感じている」と言っていました。私が知る限り、高倉健さんはクリスチャンではなかったと思います。しかし、人間がある境地に入った時に、「自分は何か見えない力によって生かされている」と思わされるのでしょう。高倉健さんも、このような心境でこのように言ったと思われます。

わたしたち人間が、時につらいと思わされる人生で生かされている目的は、神の栄光を現すためです。神によって創造された人間として生きること、そのような認識をもって生きること、神を信じて生きることに、わたしたち人間が生きる存在意義、生かされている目的があるのです。

わたしたち人間が、神の愛に気づく時、不思議なことが起こります。今まで愚かな事ばかりして自分を傷つけてきた人が、神の愛に気づくと、自分をもっと大事にするようになります。神に愛されているからです。

結論

いかがでしたか。自分の力で生きていると思っていても、実は、神によって生かされている事実にお気づきになりましたか。読者の皆様のご感想やご意見を心よりお待ちしております。読者の皆様に神のあふれんばかりの愛が注がれますように。

私たち人間は、私たちを創られた神から離れては人生の目的を見つけることはできません。人生の目的とは、主イエス様によって与えられます。だから、主イエス様を信じてこの人生を生きていきましょう。主イエス様は、常に私たちに呼びかけています。「ついきなさい。わたしに学びなさい」と。この招きに応えてみましょう。

外部リンク 人生の目的は見つけるものじゃない。いま、やるべきことにベストを尽くすだけ──ティール組織 著者の天職との出会い方

「人生の目的。何のために生きるのか。」への3件のフィードバック

  1. 人生の目的について個人の意見ですが、今思うことは人によって人生の目的を見つけ生きている人はいると信じています。尊敬するフランクリンコビーさんと言う方は信仰が厚く聖書を毎日欠かさず家族と読まれていた方で、人生の目的は見つけるものと話していました。それは時間をかけて自分の心と向き合い紙に何度も書き直し求め続けているからこそ与えられるミッションなのかもしれません。それは聖書が元になっているのかもしれません。禅では何のために生きるのかという問いに生きることが修行なのです。と典座の教えがあるそうです。私はまだ自分の人生の目的がわかりませんでした。でも、毎日感謝しています。生かされていることは謙虚に畏敬の念を持って世の中を支配しているのは人間ではなく、自然、神様と思い原理原則が支配していると思うようになったからです。私個人の意見ですが、とても興味深く考えさせられるお話でした。ありがとうございます。失礼があったら申し訳ありません。

    1. コメントに心から感謝いたします。パウロが、ピリピ3章12-16節に次のように書いています。非常に抽象的ですが、これがクリスチャンの人生の目的と言えるかもしれません。
      3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
      3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
      3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
      3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
      3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。
      3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

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